rakontoj el oomoto 20 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第20章
NAŬDEK JAROJ
90年

 私は、2009年5月中旬、亀岡を離れ、2013年5月末、同じ亀岡に戻ってきましたが、想像出来ないような変貌でした。大本本部は新しい衣服を、天恩郷ー天の恩恵の庭ーその名のごとく身に着けたように私には思えました。私がいない間に、3つの新しい建物が生み出されました。kreiĝi(生み出される)という動詞はとりわけ、みろく会館にふさわしいのです。外観上から伝統的日本建築を反映していますが、その内装は目を見張るほどの現代的設備です。みろく会館は実際、現代の時代にとって典型的な集会場です。地上階の広い受付は、来訪者を歓迎します。そこでは来訪者は自由に動き、休息し、出会い、おしゃべりをする事ができます。上階には会議サロンや様々な上演用の舞台があります。
  注1 teatro por multmediaj spektakloj 訳者は、multmediaj をdiversaj (様々な)に置き換えて考えました。medio は環境、境遇、生活条件等の意味で、いわゆる、英語のmedia (マス)メディアの意味はありません。
 同じ建物に出口王仁三郎や歴代教主の作品が展示されているアートギャラリーがあります。時期に合わせたギャラリーの展示は、人を魅了します。みろく会館全体が、文化や芸術に関連して大本の教義にそって人々をもてなしてくれます。
 2階には、エスペラントで表示されている大きな食堂があります。小さな4人か6人用の長テーブルがあります。それに加えて、畳のコーナーもあります。そこでは日本の習慣で、座って食事する事ができます。それぞれのテーブルには、2代教主が著した食事前の文章が置かれています。それは、以前の食堂にあったものと同じで、日本語とエスペラントで書かれています。「天と地の恩恵から生まれた野菜の葉の一枚でも捨ててはいけません」そうです、エスペラントは新しい建物でも再び登場しました。新しい建物は廊下でつながっていますが、今の全体の建物は、以前のような、迷路という感じはありません。エスペラントの標識にそって、私は、簡単に以前の浴場を見つけられます。脱衣場には日本語とエスペラントで詳しく、入浴の心得が書かれてあります。たとえば、「浴場で、飲み食いすることは、習慣になっていません。」
 みろく会館から廊下を通って、容易に事務所のある建物に行けます。廊下は小さな池の上に通じています。その池は泣いているような柳の緑で縁取りがされ、水面の真ん中に噴水があります。 

  注2 kun saliko „ploranta”はverdaĵo を修飾しており、kun fontano meze de la akvo はlageto を修飾。個人的には、lageto の後のコンマを外して、plorantaの後ろに付けたいですね。
 このような目を楽しませてくれる光景を、渡り廊下の仕切りガラスのお陰で、ゆっくりと鑑賞できるのです。大本会館は、大本運動の現在の管理部門の中心です。ここには、本部長や役員達も働いています。大部屋には、そこで働く人達の為に数十の机があります。その中にはエスペラント普及会も含まれています。EPAには8人が働いています。皆エスペラントを話します。国際語を用いて、他の部所の人達とも連絡を取り合っています。加えて、大本会館は、特に海外からの来客の宿泊の役割も果たしています。今回、そこは私の家でもありました。
 一つの建物から別の建物に移った時、スリッパがないのに気づきました。新しい建物では靴を履き替える必要はなくなりました。それは、おそらく、今の床材が機械の助けで、衛生的にするのが容易になってなってきたからでしょう。それはそうと、私は、働いている人達が自ら、自分の働く部所の掃除をしているのを見ました。大本内の至る所、清潔に輝いています。それでも、スリッパが完全に消えたわけではありません。トイレや土足禁止の場所にはスリッパがあります。しかし、スリッパでさえ、その特権を失っている所もあります。ご神前、畳が敷かれている部屋には、靴下、ストッキングでのみ、足を踏み入れる事ができます。
 屋根付きのテラスで、みろく会館は3番目に新しい建物とつながっています。その建物の名前は神教殿です。文字通り、神の教えの広間と翻訳されます。大本の活動や教義についての知識を深める事を望む信徒にとっての、講座室です。3つの新しい建物のなかで、最も小さく、最も美しい建物で、伝統的日本建築を代表しています。神教殿の外面、内面の建築材は、薄黄色のヒノキ材です。全体は美しく、明るく、繊細で、軽快さがあります、堀の内側に建てられ、そりのある屋根で覆われ、あたかも飛んでいる鳥のようです。
 神教殿の講座室の前に、「一つの神、一つの世界、一つの国際語」の大きな石碑があります。この記念碑は、1923年の大本へのエスペラント導入を思い起こさせます。この記念碑のそばの、1963年に建てられた建物は、2011年、神教殿にその敷地を譲りました。結果として、エスペラント碑を、以前の少々目立たない場所から前方の位置に移動する、好ましい機会となりました。この移動には、とりわけ、本部長、田賀紀之の大きな貢献がありました。田賀は愛善会の会長でもあります。私に言わせて頂ければ、本部長のその目的は、Taga というエスペラント読みによって十分に動機付けられます。
    注3 Taga はエスペラントで日中の、昼間の。そこから日にあたる、今まで、あまり目立たない所にあったエスペラント碑を、目立つ、日にあたる場所に移動した事を述べています。
 本部長は、まさに記念碑の前で、EPA設立90周年の国際友好行事に、海外からのエスペランチストを歓迎しました。石碑が、しっかりと、美しい講座室前に建っている一方で、威風堂々としたみろく会館上方の高い帆柱に緑星旗が翻っています。軽やかな風が、白地の中央に、赤い10個の丸のある旗をひらめかせています。それは、大本運動の紋章です。もう1つは、金の輪の中央に緑の星がある、人類愛善会を表す旗です。3つ目はエスペラントの旗でEPA のシンボルです。



 私は安易に、緑星旗は国際友好行事の時だけ掲揚していたと推測していました。しかし、それは間違いでした。実際は、臨時の、つかの間の飾りではなく、亀岡大本本部が、開教120年記念事業で2012年5月、根本的に立て替えられて以来、備え付けの象徴として設置されています。愛善会と同じように、エスペラント普及会もまた、大本にとって必要不可欠な要素を呈している事を思い起こします。まさに、90年前に設立されました。その歴史的な事実を記念して、2013年5月31日から6月5日まで、国際友好行事が開催されました。みろく会館は、エスペラント大会場として、最初の役割を果たしました。およそ200名のエスペランチストが、アルゼンチン、ブラジル、ハンガリー、イラン、韓国、ポーランド、そして日本の7カ国から参加しました。大本信徒以外の、多くの日本人エスペラントチストが参加しました。海外からのエスペランチストは35人でした。ビザ発給の煩雑で、中国、モンゴルからの来日がかなわなかった事は驚きでした。その代わりではないですが、幸運にもベテランのエスペランチスト、ベネディクト・シルバーを筆頭にブラジルから総勢16名の申込者は、全員ビザを手に入れる事ができました。
 控えめに国際友好行事と呼ぶ記念イベントは、国内で開かれるエスペラント日本大会との競争に勝っていたのでは。1つは、参加者の数で、2つめは、豊富で興味深いプログラムで。記念行事の規模は、多くの祝電が証明していました。出口紅5代教主は、先に予定されていた別の場所での祭典に出席されていましたが、記念行事の時、参加者に向けて、エスペラントで書かれたメッセージを託されて、とりわけ次のように述べられました。

 1923年6月、出口王仁三郎聖師はエスペラント語を大本に導入され、大本の教えと共に、人類愛の心で、ザメンホフ博士が生み出したエスペラントの精神を、海を越えて諸外国に広めようとしました。それ以後、歴代教主・教主補、そして多くの先輩達が聖師の心を受け継ぎ、たゆまぬ努力と情熱を持って、多くの試練を征服し、ついに私たちは90周年記念の日を迎えました。このことを私たちは、私たちと共に同じ考えの元に行動する、多くの親愛なる同士の皆様の温かい支援と協力のお陰であると考えています。



 そして、私は、私たちの組織、EPAが目的としている理想世界、また、人々が穏やかに幸せに暮らし、お互いに喜びと勇気を携えた愛善の心で、みろく世界建設の実現に、ますます全力を尽くしたいと願っています。
 同じようなメッセージを、ルドビーコ・ザレスキー・ザメンホフ博士は残しています。私の叔父、ルドビーコ・ザメンホフの娘であり、私の叔母である、リディア・ザメンホフは私のエスペラントを指導してくれました。そして、時に彼女が自身の信仰として受け入れていたバハイ教についても話をしてくれました。私は後に知ったのですが、別のバハイ教徒が、出口王仁三郎、大本教祖にインスピレーションを与えて、エスペラント導入への道を開きました。それ以来、90年間、大本運動とエスペラント運動は継続したコンビとされてきました。共に共通の大胆な目的を、その普遍性によって活性化させてきました。大本によれば、すべての人々は1つの輪に集まります。ルドビーコ・ザメンホフによれば、エスペラントは人々の大家族の輪を築くことが目的です。大本は、エスペラント運動と同様に、人種、人々の間の根本的憎しみを取り除く事を熱望しています。大本は、ザメンホフのホマラニスモに似た宗際化への思想を支持しています。大本とエスペラントは東西の2つの重要な架け橋として出現したのです。
 プロバル・ダスグプタUEA(世界エスペラント協会)会長は、UEAと言う組織の文化的、宗教的中立性を強調しながら、組織の職員はそれぞれの背景や選択を持った個人である事実を認めています。彼自身、インド人としてヒンズー教に属し、自分の信じる宗教は大本教義の多くに共通したものを持っていると考え、日本文化の大本での表現の存在は、常に、自然の形で世界的エスペラント運動の役割を演じてきました。大本信徒には「1つの世界」「1つの国際語」といった共通認識があるからです。大本教団内において、エスペラント普及会は効果的に、そして、大げさに自慢する事なしに、エスペラントチストと大本信徒の関心を取り持つ、架け橋大使として役割を果たしてきました。
 鈴木恵一朗、日本エスペラント協会会長はこのUEA会長の考えに対して、次のように立証しています。EPAは、多くの困難に打ち勝ち、これほど長く、世界平和のため、日本のエスペラント運動に貢献してきました。1973年以来、EPAは、日本エスペラント大会のうち、60回、70回、80回、90回大会をそれぞれ、亀岡で開催。そのすべての大会を豊富なプログラムと多くの申込者で成功裡に終わらせました。日本エスペラント協会は、エスペラントの発展、学習、実用に対するEPAの前向きな活動に、心より、尊敬と感謝を表明します。全般的なエスペラント運動に関してこのような大本の積極的で創造的な役割は、地球のあらゆる地域から届くほとんどすべてのメッセージの中で際立っています。
 EPA設立90周年記念の友好行事は、そのプログラム、とりわけ、文化的豊かさで、強い印象を与えました。初めての訪問者は、八雲琴の音楽や能楽といった未知の日本伝統文化の発見に驚きます。人々は、たとえば、合気道のような武道も体験し、茶席に入席し、壮麗な祭典行事にも加わりました。


 加えて、大本両本部訪問があり、綾部、亀岡での美しい建物、庭園、浴場、独自の雰囲気等は、最も注文の多い参加者にも十二分な満足を与えました。

 行事3日目の日曜日は亀岡大本本部の月次祭で、当然ながら、万祥殿(1万の幸せの祈りの場)で行なわれました。厳粛な神への儀式は、日本語とエスペラントの2カ国語で行なわれました。斎主の出口京太郎はEPA設立90周年を記念して、エスペラントで祝詞をあげました。祭典行事の後、歌が神様に奉納されました。ザメンホフの歌詞による、別のメロディの„La Espero”でした。その後、すべての参拝者はお弁当箱(直会弁当)を受け取り、礼拝場は仮のレストランに早変わりです。皆、畳の上に座っての食事です。美味しい趣は殿外にもありました。着物に身を包んだ女性達が、参加者に抹茶の接待をします。そして、記念撮影。みろく会館へ会場は移りました。日本伝統文化の数々の行事を楽しむために。






 真剣で、厳粛な行事の後の出来事は、私を驚かせました。舞台の上には、アンプ付きの楽器を伴ったロックバンドがいて、大音響のコンサートが始まりました。聴衆はすぐに、和やかになり、座ったり、立ったりしたままで踊りながら、常に、リズミカルな手拍子で演奏者に、より大きな伴奏を加えました。演奏者は大本信徒で、その中には、エスペラントで友情や愛を歌った、エスペランチストの平岡康がいました。さて、私は、教主補出口日出麿の著作「生きがいの探求」を思い出しました。その時の行動を、大本信徒は自分達の大きな主張、進展主義と楽天主義を前向きに実践しているように私には思われました。
 EPA設立90周年記念の感動的な瞬間は、80年前に行なわれた同じような行事の回想でした。大本教学研鑚所長であり、素晴らしいエスペランチストである斉藤康は、見つかった無声映画について、魅力的な歴史について語りました。その映画は、1933年、EPA設立10周年記念時に、制作されました。大本活動が最も活発であった時期で、エスペラント分野も同様でした。その後は、弾圧と破壊の長い期間が続きます。そのような環境で、多くの書類や目に見える文化遺産が無くなりました。救われたのは、無秩序に忘れらた中で、一部が後世に残されている事です。二大教祖、なおと王仁三郎の90分番組を作るため、NHK(日本の公共放送)が大本本部で調査。その番組は2013年1月6日夜、放送されましたが、その取材中に大本の数ある歴史的映像のリストのなかから貴重な映像が発見されました。10分間に及ぶその映像は、国際友好行事の参加者を紹介していました。それは、最初から予定されたことではなかったのです。無名のカメラマンが、ただ、10周年の参加者を映像に収めたものでした。大本の歴史を学んでいたので、映像に出てくる、当時の活動の中心人物を知っていました。彼らは突然、スクリーン上で動く人物として復活しました。私は容易に、その中の数人、出口王仁三郎、西村光月、伊藤栄蔵、出口日出麿を認識しました。彼らの声は聞けませんでしたが、まるで現在の出来事であるかのように、エスペラントの出会いから驚くべき気品を感じます。


 名の通った日本のエスペランチスト、藤本達生は別の歴史的な映画を紹介しました。映画は次の点でエスペラントに関係しています。ある架空の国の会話が、私たちの言語で話され、同時に日本語の字幕スーパーが付けられていました。映画は2時間で、17世紀、日本に対するヨーロッパ人の残酷な侵略エピソードを物語っています。その作品、「ジャン有馬の襲撃」は20世紀の半ば、1950年代に完成しました。日本は、サンフランシスコ講和条約で正式に第二次世界大戦が終わったばかりでした。具体的なヨーロッパの言語を映画で使う事は、当時の状況ではデリケートな問題でした。外交的な不測の挑発事件を避けるため、侵入者の会話に国際語の使用が決まりました。藤本達生は当時、駆け出しの若いエスペランチストでしたが、映画の重要な共同創作者となりました。制作会議では、平和戦士の言語、エスペラントを残酷な侵略者の言語に応用する権利についての話し合いがなされました。永遠の葛藤である、ブローニャ宣言と内的思想の間の議論が繰り返されます。

 国際友好行事の間、歴史的映画芸術の祭典が確かに行なわれました。私の映画作品「日本の春、2009年の大本」も出品したからです。作品は制作年月日は新しいのですが、すでにその内容は過去の歴史になっています。この映画では亀岡での未来の建物の模型が紹介されていますが、2013年には建物はもはや将来の建造物ではなく、すでに現実に完成された建物です。EPA設立90周年記念の行事に私が参加した目的は、とりわけ、映画や著述の内容の古くなった部分を、改訂し、この章で述べることでした。

 国際友好行事の開催のタイトルは特に、韓国と日本の参加者の関係に最適であると、私は特にそう感じました。日韓の出会いは大本とエスペラントの思想の合致を映し出しています。この考えはあらゆる場面で立証されます。たとえば、2009年のビヤリストークでの世界エスペラント大会時、私は大本信徒と韓国のエスペランチストの合同キャラバンのお世話をしました。今回、亀岡で、日韓の友情の感化された模範をみましたが、それは夜遅い時間の出会いでした。心から、楽しみ、語り、共にエスペラントで歌い、日本語で、日本語と韓国語で、韓国語で。日本人である田渕八州雄が韓国語で歌い始めた時は驚きました。感動的なシーンでした。それを理解するには、歴史が両国民に深い傷跡を残し、その傷は現在でも政治レベルで、相互関係を引きずり、刺激していることを知らなくてはなりません。大本は勇気を持って、効果的にこの問題と立ち向かい、具体的な結果となりました。亀岡では日韓の和平は目に見える形で表れています。国際友好行事の最後、外国人は各地の大本神の家にそれぞれ出発しました。私は大阪へ、韓国のグループと共に招かれ、ここでも、再びこの目で、この耳で日本人と韓国人、いや人間と人間の出会いを確認しました。




 エスペラント100周年記念時に、大本が、エスペラントを用いて国際的友好と連帯を前進させた行動に対して、「出口王仁三郎賞」を設立した事を思い出すのは楽しいことです。ところで、私は少なくても、日本人と韓国人の友好を前進させた大本自身が、出口王仁三郎賞にふさわしいのではと、考え始めています。EPA設立90周年記念、国際友好行事の参加者に対して、出口紅5代教主は、メッセージの最後に、エスペラントが大本に導入された1923年、出口王仁三郎教祖が作られた短歌を引用されました。

  国と人 
  境を知らず 
  天が下
  鳴り響くなり 
  エスペラントの声
(完)


 今回の第20章をもって、『大本物語』を完訳することができました。 次号からは、毎回、本文から内容的に興味深い部分を取り上げ、著者の意図や、単語、構文を、詳しく解説したいと思います。引き続き、よろしくお願いします。     
矢野裕巳
(終わり)