rakontoj el oomoto 19 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第19章
DUA ONDO
第2の波


 1959年、ポーランドの首都ワルシャワは、シュールレアリズムの絵画のようでした。文化宮殿の白い大きな塔は、第二次世界大戦後の廃墟の広大な地から、天を目指して突き上げています。ちょうど建設されたばかりの、その巨大な建造物は、ルドビーコ・ザメンホフ生誕記念100周年にあたるその年、第44回エスペラント世界大会を迎え入れました。それは、戦後もっとも規模の大きな大会で、いわゆる、社会主義陣営での最初の開催でした。43カ国、3,256名のエスペランチストが参加。国際語の生誕地で、エスペラント運動は、大戦で壊されたその普遍性を取り戻しました。当時、少年だった私は、外国人と言えばドイツ兵やソビエト兵を知るだけでした。私の町に兵士でない外国人がやってくる。その外国人は人と人との関係で集まって来たのです。

 同じ言語を話すさまざまな民族の中で、とりわけ、エキゾチックな風貌で、非常に活動的、しかもどこにでも現れるアジア人が記憶に残りました。彼は日本の唯一の代表で、たった1人の日本人でした。そして私がエスペラントで話をした最初の日本人でした。彼の名前は伊藤栄蔵です。28年後、亀岡で彼と再会します。大本信徒であり、その卓越したエスペランチストは、斬新な形でザメンホフ年、1959年を讃えました。ワルシャワを離れた後、伊藤は欧米を1年間、旅しました。22カ国、150の都市を訪問し、180回の講演をこなしました。そのうち、およそ100回は14カ国で、通訳付きで行なわれました。テレビ、ラジオのインタビューは22回、雑誌、新聞のインタビューは97回受けました。伊藤巡礼者は、12ヵ月の間、エスペランチスト宅に客人として滞在。その成功巡礼について、伊藤は後に日本で講演し、エスペラントについて、エスペラントを用いて、大本活動の第二波の衝撃を与えました。1923年から1935年における、第一波は、いわゆる、第二次大本事件の弾圧の暗闇に消えてしまいました。

 1959年8月、日本エスペラント大会が654人の参加者で開催されました。大本信徒はワルシャワからの伊藤栄蔵の印象記事を機関誌で読みました。1年後、ユーゴスラビア出身の有名な旅行作家、ティボル・セケリが大本を訪問しました。彼は、綾部のみろく大祭後、数千人を前にして話をしました。すでにそれ以前、1950年、大本は、日本語のパンフレット「国際語とホマラニスモ(人類愛主義)」を発行していました。伊藤栄蔵会長、中村田鶴雄事務局長で、同年再発足されたエスペラント普及会の発行でした。彼らに加えて、大本の重要な人物、三代教主出口直日とその夫、出口日出麿教主補らがエスペラントを支えました。数百人の大本信徒がエスペラントを学びました。あるクラスには、警官や判事等が参加しており、まさに、昨日の敵は今日の同士でした。エスペランント雑誌Oomoto が出版されました。京都の印刷所で発行されましたが、15人の従業員のうち、6名がエスペラントを話しました。

 1961年、最初の越年講習会が初めて開催され、後に毎年の恒例行事になり、エスペラントチストの合宿と呼ばれました。100名程が、年を越し、新しい年を迎え、様々なレベルでエスペラントを学びました。1962年、東京での日本エスペラント大会開催時に、日本エスペラント青年組織が設立され、その会長に大本信徒の梅田善美が選出されました。そして、別の大本信徒、出口京太郎は弁論大会で優勝しました。1年後、亀岡で石碑、1つの神、1つの世界、1つの国際語が1923年のエスペラント導入を記念して建てられました。

 当時、日本エスペラント運動全体が、1965年に計画された、東京での第50回世界エスペラント記念大会の準備に、すでに取りかかっていました。1963年から64年の恒例の越年講習会では、若い大本信徒達が、東京の世界大会の準備をしていました。4つの様々なレベルのグループが、人類愛善会の色によって分けられました。土、星、月、太陽のそれぞれの色に。伊藤栄蔵、重栖度哉といった2人のベテランに加えて、出口京太郎、梅田善美の青年が指導しました。同年、多くの大本信徒の要求に答えて、ノーバ・ボーヨ誌が大本国際部と青年部の編集で発行されました。それは、大本信徒以外のエスペラントチストにも好まれました。雑誌は、通信添削問題の「力試し」によって、言語力の上達を図りました。
 1964年から65年、亀岡における越年講習会は、130名の大本信徒の参加で開催されました。7クラスに分けられ、14人の講師のなかにグラウコ・ポンピリオ常駐大会事務局長も入っていました。彼は、世界エスペラント協会の側から世界大会の組織の世話をしていました。大会のムードの中で、日本の国会への嘆願に向けた指導がなされました。国際関係と教育機関におけるエスペラント導入についてでした。大本の役員は前向きにその運動を支持しました。1965年、国際協力年宣言の年、大本はUEAの国際連合への提案、つまり、「中立的国際語であるエスペラント普及への効果的助力で、国際的な言語問題を解決し、各国がエスペラントの指導を促進、人々の国際協力の場でエスペラント使用を推奨する」を元に署名活動に参加します。



 1965年8月初旬、東京で第50回世界エスペラント大会が、1,710人の参加者で開催されました。それは、アジアで初めての世界大会で、日本人が多数参加しましたが、それ以前は、国際会議でそのような光景はまれでした。当時のUEA(世界エスペラント協会)会長、日本人の八木日出雄は、脳卒中の為に姿は見えませんでした。その大本の偉大な友人は、大会後の大本インテルナツィーア・フェスティバーロにも参加出来ませんでした。フェスティバーロは、1965年8月13日から15日まで亀岡で開催されました。350名が参加し、その半数は27カ国からの外国人でした。大本史において、最も盛大で国際的な取り組みでした。プログラムには芸術、文化のイベント、能、茶道、歌祭、舞姫の舞、八雲琴の演奏などがありました。

 1969年、東京で第56回日本エスペラント大会が開かれ、350名が日本エスペラント学会設立50周年記念を祝いました。長年の功績に対して、傑出したエスペラントチストへの感謝状が出されました。その名誉あるグループには、大本信徒も入っていました。西村光月、伊藤栄蔵、中村田鶴雄そして、重栖度哉。そのベテラン達は青年の輪の広がりを喜びました。1971年、亀岡で、第4回大本青年祭が1,200名の参加者の下、開催されました。そのプログラムの中で、劇と弁論コンクールがエスペラントで行なわれました。8人が弁論大会に参加、そのうち5名が女性でした。当時エスペラント普及会の活動は活発化し、1973年には第60回の日本エスペラント大会を亀岡の大本本部が主催し、同時に、大本エスペラント導入50周年を祝いました。

 1985年、大本は協力団体として、UEA(世界エスペラント協会)に加わりました。EPA (エスペラント普及会)はその名称を変え、500名の会員を持ち、正式にUEAを代表することになりました。UEAの、その他64の専門組織と同様に、大本はエスペラント世界大会では分科会を開く権利を持ちます。1986年、北京での第71回世界大会で、私は Verda Majo (長谷川テルのペンネーム)の部屋での分科会に顔を出しました。大本について知るためでしたが、それほど興味があったわけではありませんでした。それは、分科会といったものではありませんでした。驚きながら、私は興味深いショーを見ました。EPA会長、出口京太郎が、美しい着物を着た若い女性と共に、入ってくるゲストに1人ずつ挨拶をしていました。部屋はお香を炊いた香りが充満していました。

 初めに、複数人のコーラスによる大本讃美歌が美しく聞こえてきました。総勢61名の大本信徒が300名の参加者に番組を紹介しました。鎮魂(瞑想)が、最初にスライド写真で説明された後、始まりました。瞑想は、2弦の伝統的な八雲琴の伴奏で行なわれました。その後、映像による紹介「第一回伝統芸術セミナー」。そのセミナーは海外のエスペラントチストに対して伝統的なものが整えられていました。例えば、授業は、茶道、仕舞、謡、書道、墨絵、剣術、指圧、華道、講話、そして伝統的な建物を訪ねる等でした。気づかないうちに、2時間は十分に過ぎ去っていました。参加者は、それぞれ満足して退室しましたが、日本の可愛い芸術的な小物をお土産にもらいました。

 1987年は、エスペラント発表100周年記念にあたります。ワルシャワでの盛大な大会は、6,000人の参加者で行なわれました。そのように多くの大衆に向って、大本は出口王仁三郎の名にちなんだ独自の賞を設立することが決定されました。賞には1,800ユーロが送られます。毎年、UEAの役員が選考し、エスペラントで、国際的な友好と連帯を前進させた人が選ばれます。オランダ出身のハンス・バッカーは歴史的な最初の受賞者になりました。アフリカの人達にエスペラントを広める事に成功した功績からでした。2012年までの王仁三郎賞の全体の分担額は4万7千ユーロで、26人の活動家に贈られました。当時のEPA事務局長、吾郷孝志はワルシャワへ向う途中、ちょうど改修されたばかりの、ロッテルダムのUEA本部に立寄り、出口王仁三郎の肖像画を寄贈しました。絵を描いたのは王仁三郎の義理の息子、出口虎雄でした。UEA の事務局長であったオスモ・ブラーはその時言いました。「私は肖像画を見ると、落ち着きと調和を感じます。絵が、出口王仁三郎の名前の部屋に、エスペラント発表100周年の機に掛けられた事は、大きな意味があります。」

 2001年出口聖子四代教主が亡くなった後、21世紀が始まり、3度目の1000年期が始まりました。その画期的な区切りに、大本の継承者に出口紅が五代教主として決定されました。教団の今までの指導者と同じように、彼女も国際語を学び、大本の宣教の手段としてエスペラントを使いました。2004年、五代教主は176名の大本信徒を率いてモンゴルを訪れました。かの地への、出口王仁三郎の訪問80年を記念して。



 その訪問によって、大本は外郭団体の人類愛善会を通して、次のような教えを元に、モンゴルでの活動を開始しました。太古、モンゴルにおいて須佐之男命が使命を持ち、平和な世界を支配する働きを始めました。そこで、出口聖師はアジアの大連邦を立ち上げる計画をたてました。中国、インド、そして中東との精神的つながりを持ち、全世界の不安の根本的問題が解決されるように、モンゴルにセンターを樹立するのです。すでに、2008年には、ウランバートルに人類愛善会モンゴルセンターが近代的建物として落成式を行ないました。吾郷孝志の宣教の結果、その地にエスペランチストや大本信徒の活動的グループが組織されました。2010年、彼らは、第6回アジアエスペラント大会を開催しました。
 2007年、横浜での第92回世界エスペラント大会の後、13カ国、74名の大会参加者が、大本のゲストとして綾部にやってきました。五代教主が彼らをエスペラントで歓迎しました。8月11日から14日、日本の生活と芸術を楽しみました。最後に、全員、伝統的歌祭に参加しました。その時、UEA会長であったレナート・コルセッティは次のように話しています。大本は非常に明解で、隠すところなく自由に、その目的である、一つの世界、一つの国際語を目指しています。私たちエスペランチストは、一つの世界、一つの国際語に興味を持ちますが、その前に大本信徒にとっては、万教同根が示す一つの神が存在するのです。

 エスペラントと大本は、ブラジルにおいて、長く兄弟のような関係です。出口なおが受け取った啓示の中に、次のような予言が見られます。私が(神)がすでに言ってきたように、神事は遠くの国から展開し始めるでしょう。大本信徒にとってのその国はまさに、地球の正反対の地点、ブラジルなのです。ボーナ・エスペーロの若い女性、イルデッチが、大本のゲストとして日本に向う時、ボーナ・エスペーロのエスペランチストは、イルデッチは頭を下にして、逆立ちして歩かないといけないとからかいました。ブラジルへの日本人移民は、19世紀の終わりから20世紀の初頭までが中心で、奴隷制度廃止の後、新しい労働力を緊急に必要としていました。ブラジル国家は何百万と言う農夫を主にヨーロッパから募集しましたが、日本にも募集がありました。その日本移民の中に、大本信徒も含まれていました。

 人口密集国からやって来た人達は、ブラジルの広大な地に散らばっていきました。それでも、大本信徒は、再び連絡を取り合う努力を行いました。1988年8月、大本南米本部が開設されました。その本部はジャンジーラ市で、現在はサンパウロの一部になっています。日本流の大本礼拝堂が立ち上がりました。ブラジルの大本活動において、エスペラントが橋渡しの言語となったのは、明らかでした。その分野で、重要な役割を果たしたのは、スピリチュアリストであり、エスペランチスト、そして大本信徒であるブラジル人、ベネディクト・シルバでした。すでに、前世紀の80年代に、彼は、長年大本支部の会長を努めた日系ブラジル人、ユリオ・タケシ・三原と共に、ブラジルの隅々まで大本信徒を発見する目的で、遠征隊を実現させました。ベネディクト・シルバは疲れることなく、大本信徒にエスペラントを指導し、ご神書を含めて、大本の出版物をポルトガル語に翻訳しました。

 出口紅五代教主は、2004年、初めて南米宣教を行なっています。その巡礼の結果、首都であるブラジリアに宣教の拠点、オオモト・インテルナツィアが開かれました。オオモト・インテルナツィアはエスペラントとポルトガル語で出版されている機関誌と同じ名前です。その宣教拠点の編集者であり責任者は前田茂樹です。オオモト・インテルナツィアの所在地は、近代的ブラジルの首都の北東地区にあります。ブラジリアは、人の住まない熱帯草原の不思議な起源と巨大な建造物で神秘的な市と考えられています。

 2007年から2008年、私は「ボーナ・エスペーロ」に関する著作のために、ほぼ1年間ブラジリアで過ごしました。私はウルスラとジュゼッペ・グラタパリアへのインタビューという形式で、本を書きました。彼らは、共に世界でユニークなエスペランチストの教育現場での長年の指導者でした。彼らは私に、オオモト・インテルナツィアに適した本拠地を見つけるため、前田茂樹への協力を話しました。そして、その開所式を思い出していました。ブラジルのエスペラントチストは、250名の参加者への日本芸術紹介を伴った祭典の開催に協力しました。そのイベントがボーナ・エスペーロとどのように関係するのか? ウルスラとジュゼッペは答えました。

 出口紅教主は提案しました。彼女と彼女の側近は、開設集会の後、数日をボーナ・エスペーロで過ごしました。そして、おめでたい偶然ですが、彼女の誕生日はザメンホフと同じです。そこで、我々はボーナ・エスペーロにおいて、ザメンホフ祭の日に、彼女の誕生日をお祝いする事ができました。

 教主の協力により、やがて、大きなサロン、台所、教室、そして、インターネットにつながるコンピュータ室を擁する330㎡の敷地に立ち上がる建造物の象徴となる、基礎ができました。2つの仕事をこなすために、私は、2013年の最初の3ヵ月を、ボーナ・エスペーロで過ごしました。1つは、ウルスラとジュゼッペ・グラタパリアと共に、「ボーナ・エスペーロ、理想と現実」の書籍の音声版を実現させようとしました。それは、イタリアの盲目のエスペランチスト達の依頼でした。残りの時間を私はこの本の著作に費やしました。仕事は、エスペラントの教育現場の天国的条件のなかで進めました。まさに、私は、自身のみろくの世を感じました。

 もう一つの偶然がありました。2012年UEA(世界エスペラント協会)の役員会はウルスラとジュゼッペ・グラタパリアを王仁三郎賞受賞者に選びました。エスペラントの創始者であるザメンホフの思想、大本活動の創始者である出口王仁三郎の教えに従い、世界平和と人類の幸福のための偉大なる手段として、エスペラント活動を行い、2012年の最も功績のある活動者として、夫婦の功績をはっきりと認めました。そして、2013年、ボーナ・エスペーロにおいて、著作に専念しながら、私は、90年の大本とエスペラントの共存を思い起こさせてくれた、この事実を記す喜びを感じています。

(続く)