rakontoj el oomoto 18 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第18章
DE SANUKI AL ĈINIO
讃岐から中国へ


 三好さんは1960年、お父様の工場で働いていましたね。どんな感じでしたか? 
 当時、父は、40人の従業員を雇用し、1日600双の手袋を製造していました。現在、株式会社スワニーは、中国の4つの工場で1,000人の就業者をかかえ、米国の販売店では500人を雇用しています。それは、日本の本部組織での人数を除いての数です。現在は、一年に700万双の手袋を製造しています。成功の立役者は、私の父で、熱心な大本信徒でした。極めて困難な環境の中で、父は立派に企業を立ち上げ、母の助けにより、会社を発展させることが出来ました。その功績で、1976年、皇居でメダルを授与されました。
三好さんが工場の采配をふるい始められたのはいつですか?
 1978年ですが、そのずっと以前から父を手伝っていました。私たちの製造所は、毎年、年末に生産活動をストップし、従業員は4月まで、解雇されます。冬の期間、やめてもらう必要がありました。しかし、その時でも、工場の在庫は購買需要を上回っていました。当然ながら、その解決は、海外に販売市場を探し出すことでした。そうは言っても、私の身体障害や言語の障壁を考えれば、夢物語のようでした。それでも、1964年、私は考え直しました。日本は重要な工業国になっていました。逆説的ですが、軍事的に敗北したお陰で、そして平和的政治により、急速なる進化を遂げました。戦車ではなく、自動車を! 変動通貨による円の変動が、輸出を刺激しました。航空運輸の進歩により、地球の一角から別の場所への迅速な移動が容易になりました。言語の壁は、飛び越えが可能に思えました。私は学校で6年間英語を学んだのですから。

三好さんは世界制覇に挑んだのですね? 

 私の主な目標は、米国でした。まずは、形を打ち破る事でした。つまり、パスポートと入国ビザを受け取る事。両替はわずか2,000ドルまでしかできませんでした。1964年10月5日、私はニューヨークに飛びました。24時間の飛行でした。ホテルで一夜を過ごし、摩天楼の通りに出ました。朝食を取る為、カフェに座りました。すぐに、ウェイトレスが近づいてきました。私は勇気をふるって、ずっと以前に習った文章を口にしました。「ホットミルク、トースト、レモンティ」 ウェイトレスは困ったように私を見ていました。私はより大きな声で同じ言葉を繰り返しました。それでも彼女に理解してもらえませんでした。幸運にも日本人の学生が店に入って来て、助けてくれました。「ホットミルク、トースト、レモンティ」と私のカタカタ英語を翻訳してくれました。
日本のカタカナ表記は、どのようにあなたの英語の知識に関連していますか? 
 英語を勉強する時、私は暗記した表現の発音をカタカナで書き留めていました。日本語の音節は、英語の発音をそこそこ反映しています。私はホットという単語を3つのカナで、ホ、ッ、トと読んでいました。日本語の言語音は母音と子音の組み合わせ、そして母音だけの組み合わせから成り立っています。tとかsのように孤立した子音は書き留めることができません。というのも、それぞれのカナが存在しないからです。だから、短母音のuを加えるのです。結果として私のカタカナイングリッシュでは、milk は、mi・ru・ku、そして、lemon tea は、re・mo・n・ti。 日本語ではr とl との間に違いは存在しません。

言語の壁があったにせよ、三好さんは職務の手はずには成功したんですね?

 私は通訳を雇いました。しかし、貿易会社との交渉は成果のないものでした。引き続き、ハンブルクへ旅しました。そこでも通訳の力を借りて、貿易商社の数社とコンタクトを結びました。次の目標はイタリアでした。イタリアでは、奇妙なお金にショックを受けました。百万単位で計算されていました。タクシー、レストラン、ホテルで勘定を払う時、私は自信に満ちた表情で数えられない紙幣の束を手渡しました。私の前には奇妙な料理が出され、注文していないのに、ワインが置かれました。ホテルの浴室には、小便器のそばに、別の、少し小さなものがありました。私はそこに座り、蛇口をあけました。新鮮な水が上に噴き出しましたが、その温度は突然変化し、私の陰嚢に熱湯をかけました。火傷は、数日痛みを感じる程度でした。私が、当時日本ではあまり知られていない、ビデを誤って使ったのは明らかでした。
 (注1)Suprenspruĉis は間違いで、ただしくは、Suprenŝprucis
 地球を回るその旅は1ヶ月続きました。私は、異なる言語の壁を打ち破るだけでなく、時差、気候、文化も打破しなければなりませんでした。羽田空港に着いた時、飛行機から苦労して降りなければなりませんでした。私たちの手袋の為、海外の顧客を捜しながら、自分自身が日本人医師の患者、つまり顧客になっていました。
 (注2)エスペラントのkliento は、レストランの顧客、弁護士への依頼人、あるいは、かかりつけの患者などの意味があります。

旅行は勉強になると言われます。(かわいい子には旅をさせ)
 数十回の冒険旅行のあと、私は英語を知らずに国際的な商売をすることは不可能なことを知り、NHKラジオ講座で、真剣に英語を学び始めました。学習は3年間、毎日続きました。米国大統領のジョン・F・ケネディによる1時間の演説録音テープを用いて、発音を鍛えるという興味深い方法を取り入れました。大統領の声を聞きながら、大声で真似をしました。運転しながら鍛える事が可能で、時間を無駄にすることはありませんでした。私は何万回とその演説を聞きました。その努力の結果、自分自身がさらに勇気を持って、行動しなければならないと感じました。不十分な言語能力にもかかわらず、私は輸入業者とのコンタクトを結ぶ事に成功しました。そして、1970年には、卸売り商への販売を開始しました。しかし、加えて、私はシカゴのシアーズという巨大企業に興味を持ちました。6年間私は、しつこくその巨大企業に突撃し、ついに征服しました。Bridges という名前のバイヤーが私の情熱を評価してくれ、私たちの手袋の品質と価格に満足してくれました。何百万ドルものスケールでビジネスが始まりました。それは、我が社の革命的な前進でした。
その時から、三好さんの会社の従業員の方は冬期の自宅待機はなくなったのですか?

 すでに、私の最初の世界周遊旅行の後、1965年には、工場は冬期も稼働していました。私は、まず合理化によって生産拡大に努力しました。それは、新思考の開始でした。後に、裁断、縫製そして在庫管理における技術の革新が続きます。管理と財政の過程が変化し、工場は生産を一年を通じて継続できるようになりました。すべては、調和を持って流れ、ビジネスに加速がついていきました。販売は伸び、利益は上がってきました。1972年には広大な土地を購入、新しい工場を建設しました。私は、調査旅行でドイツに飛び、水力学による裁断機3台を注文しました。機械と共に、ドイツ人技師も来日し、機械の設置を行い、使用法についてのデモンストレーションを行ないました。その裁断機によって材料の節約が可能となり、価格が下がりました。また、裁断の速度も早くなりました。日本で最初の裁断機導入でした。

すべて、あなたのカタカナ英語で、成果をあげたのですか?

 その間に、私の英語力はかなり伸びたと思います。それでも、相互理解は困難で、常に、いびつさ、不公平さを感じていました。私の心には、潜在的にそうした状況に対する不満が芽生えていました。私は、莫大な時間と途方もない努力で、彼らの言語を用いて、外国人とコミニュケーションをとらなけれならないのです。それを私は不条理で、決して解決出来ない問題だと考えていました。私の最初の探検旅行の後、大新聞である朝日から出口京太郎著の「エスペラント周遊記」が発行され、それを手にしました。著者は、日出麿師の息子さんで、失恋による虚脱、その後の大本での修行中において私の人生に強く影響を与えた人でした。著作は言語障壁のない世界について報告されていました。私を驚かせたのは、著者が多くの観衆に対して、エスペラントで直接語ったことでした。まさに、合理的で正しい言語問題の解決でした。私はいつか、エスペラントを学ぼうと決意しました。その一方、その時は自分の仕事の為に英語と格闘しなければなりませんでした。

別の話題ですが、なぜ会社の名前を変えられたのですか?

 変えたのは1968年で、私たちの新しいビジネス戦略の当然の帰結です。元々は「三好繊維工業」でしたが、あまりに長く、三好は外国では、まいよしと間違って読まれました。もっと短く、発音しやすく、出来れば英単語に由来するものが良かったのです。いくつかの提案のなかで、もっとも評判がよかったのが、Swany でした。白鳥市の名前を暗示しているからです。Swany=Cigno=白鳥。やがて、株式会社スワニーの読み方の会社になりました。米国で私たちの会社を紹介すると、驚く事にSwanee River の歌で挨拶してくれました。1919年ジョージ・ガーシュウィン作で、有名なカンツォーネ歌手のアル、ジョルソンが大衆に広めました。
 (注3)Swanee River はフォスター作で、ここでは Swanee が正しい曲名です。
 日本の4つの工場で生産された株式会社スワニーの商標の手袋は欧米で大量に販売されました。しかし、70年の操業から、次第に安閑とできない傾向が見られました。少しずつ販売数が低下してきました。

どう言うことで?

 私たちの顧客は主に韓国や台湾で、より有利な提供をしていました。それらの国々はアジアの虎の第一世代を代表していました。日本は、アジアにおける東洋の資本と技術を基盤にした産業革命の開拓者でした。結果として、総合的な発展を体験した最初の国です。とりわけ、国民は豊かで、労働者全体は社会的に保護されていました。続いて、労働コストも上昇してきました。私は台湾や韓国での問題を現地で調査しました、そして、合理的な解決は我々の工場を、安価な労働力が豊富である現地に移すことが必須であると判断しました。私たちは韓国を選び、その地に1972年移転しました。まもなく、1,200名の従業員をかかえる3つの工場が日本、欧米への輸出拡大を可能にしました。


株式会社スワニーの歴史において韓国時代はどのくらい続きましたか?

 およそ15年間です。1980年になると顧客数の減少が見られました。中国に注目が向けられ始めました。というのも、中国製の手袋がより安価になってきたからです。以前の日本がそうであったように、韓国の工場にも倒産の影がちらつき始めました。早急に韓国から撤退する必要がありました。そして、それは、現地の組合の猛烈な抵抗により、恐ろしく困難な仕事となりました。それに関しては、ドラマの台本が書けるぐらいの話があります。競争による価格を抑えるために、私たちは中国に工場を移転させなければなりませんでした。労働コストは韓国の4分の1でした。1984年、株式会社スワニー は、活動を上海から70キロ東の昆山(蘇州)で始めました。


資本主義の工場が共産主義国で容易に設置できましたか?

 私たちの工場設置には、地域の機関と事前に長い交渉が必要でした。半年で私は6回中国を訪れ、42日間、契約に関する集中した骨の折れる議論を必要としました。例えば、名前についてもそうでした。私たちがSwany China を提案すると、彼らはChina Swany を提案するといった具合です。議論すべき63の要点に関する交渉は、まさに、共産主義と資本主義の戦いの様相でした。そのような環境の中で、大本本部から私の妻に電話がありました。出口日出麿先生が次のようなご染筆を書かれたとの事。「讃岐と中国との行き来は重要になるだろう」 讃岐は私たちの県の歴史的呼称です。私は、御染筆を中国への試みの良き前兆として判断しました。それは、出口王仁三郎への命令、大本の使命を広げるため、「丹波から世界へ行く」を連想させました。しばしば、交渉の危機的な状況において、拳を机に叩く一方、日出麿先生は、私が凝縮したエネルギーで力強い声を発することを後押ししてくださり、突然沈黙の間が支配し始め、、、そして、私の提案が受け入れられました。Swany China は中国の省内(江蘇省)では最初の海外の工場でした。後に、全世界から3,000社もの会社が続きました。

三好さんは中国語も学ばれましたか?

 私は韓国語を学習しました。しかし、中国語については、気力と時間を見いだせませんでした。中国は繁栄し、世界の威力となりました。まさに経験を通して、英語がいかにアジア人にとって困難であるかを知っていましたから、多分中国は、自分達の難しい言語を他国に、またヨーロッパ人にも押し付けるかもしれないと、私はふと考えていました。2004年、北京でのエスペラント世界大会時に、米国のハンフリー・トンキン教授がインタビューに答えて次のように語りました。「国際連盟において、フランス代表はエスペラントの導入に反対しました。フランス語がいつまでも、国際語であり続けるとの確信からでした。実際のところ、彼らは英語の普及を手助けした結果となりました。英語は、同じ運命をいずれ中国語との競争のなかで経験するのではないでしょうか? そこで、私は合理的、中立的な解決を主張します。それが、エスペラントです。」この言葉が、国際語に対する私の支持の正しさに確証を与えてくれました。
英語では十分ではなかったのですか?

 英語の学習は10年以上になりますが、私が主に話せるのは、手袋と価格についてだけです。別の話題になると、私は通訳が必要です。1995年、私は真剣にエスペラントの学習に取り組み始めました。55歳の年齢にも関わらず、しばらくすると、英語よりも容易に相互理解ができるようになりました。しかし、学習は骨の折れるものでした。1995年、私は月刊誌「エスペラント」を読み始めました。どのページでも数十語の知らない単語に出くわしました。毎日3時間、私は辞書を引き、余白は書き込みで真っ黒になりました。雑誌1冊を読み終えると、次の号がやってきます。それでも、少しずつ、未知の単語数が減少していきました。言語の学習だけでなく、エスペラントの思想も学び、エスペラントと大本の共通の特徴に気づきました。ルドビーコの言語を受けいれる王仁三郎の動機を理解したのでした。
そして、三好さんはエスペラントの宣伝に惜しみない投資を決意された、それはどのように始まったのですか?
 大本教義の本質的一部として、エスペラントの重要性についての私の覚醒と、Walkin’ Bag(歩くかばん) の名で特許を得た私の発明の間には、同時発生的な神の摂理がありました。 様々な形でこの英語名を翻訳する事は可能です。実際、ハンディキャップの人の為のステッキかばんに関してです。それは小さなかばん付きのハイブリッド支柱です。伝統的な杖は歩行中、前に進むごとに持ち上げ、立たせなければなりません。ステッキかばんは小さな車輪が装備され、体の不自由な人はそれを転がし、同時に支えてくれるのです。組み立てられたバッグ、旅行かばんは、旅行期間必要な物の入れ物として使われています。

三好さんはどのようにして、そのような輝かしい考えを獲得したのですか?
 もしザメンホフが多言語地域のビヤリストーコで生まれていなければ、彼はエスペラントを思いつくことはできなっかたでしょう。同様に、もし私が身体障害者でなければ、私はステッキかばんを発明出来なかったでしょう。思いつきは、駅や空港で浮かびました。長く歩かなければならなかったからです。かばんは平らな表面は容易に転がります。私はよく、キャリーバッグを支えに使いました。その時、私の健康な足には負担がかかり過ぎ、思うように動かなくなりました。考えはこのようにひらめきはじめ、その結果は特別な支えを持つキャリーバッグの誕生でした。少しの時間と原型から、大量生産に適した完全なモデルへの実験が、自分で納得出来るまで繰り返されました。 
 (注4)この pasis iom da tempo kaj pena ekserimentado は pasis の主語がiom 以下kaj を挟んで最後までですが、kaj が結ぶものがiom da tempo とpena eksperimentado では、ちょっとしっくりいかない。kaj が結びものは、同等でなければならないので。このkaj をkun にしたら、kun 以下のiom da tempo がpasis したで意味がとりやすくなるのですが?
三好さんの発明はエスペラントとどのような関係になるのですか?

 このようにして、私は日本、米国、EU、そして中国で Walkin’Bag の様々なモデルの特許を取得しました。
 (注5)patenti は(特許を与える) でここでは、patentigi( 特許を取る)が正しいと思います。           
 退職後、私はスワニー株式会社の重役会と同意しました。その特許の収入を、私が国際語の広告に投資出来る事を。2002年以来、私はエスペラントに関する数十の記事を掲載しました。
 (注6)publikigi =publiki 公に発表する、公表する
 それらの記事は世界の、とりわけEU13の国々で、名門新聞に全面広告として現れました。フランスのル・モンド紙には最も多く載りました。それらの記事では世界の現実の言語問題、不公平で高価なる問題解決の方法、そしてそれらに対抗する(それらにとって代わる)ための、エスペラントの言語的価値を主張しました。最も重要なのは、エスペラントの容易さで、学習に費やす時間が他の言語に比して平均10分の1で可能だという点です。エスペラントの創始者、ルドビーコ・ザメンホフは主なるインドヨーロッパ緒言語のなかから基本的な共通の要素を選び出し、それらを例外のない規則に組み込んでいきました。エスペラント構文の完全なる規則性が、その平易さの本質にあります。エスペラントは、人によって整備された川に似ています。整備されるだけ、人の役に立ちます。エスペラントの簡潔さには、様々な側面が存在しています。たとえば、すべて、発音されたとおり、文字に表すという原則があります。

三好さんはマスコミに訴える決心をされたのですか?

 マスコミの威力を信じています。そして1つの的を得た宣伝活動は、壁を壊す事ができる事例を、私は知っているからです。歴史は、類似した状況を経験してきました。ジンギスカンは万里の長城を包囲せずに、20万の兵士を1点に集中させ、3日間で大きくない割れ目を作りだしました。そこを全軍が通り、中華帝国を征服したのです。数年前から、私はインターネットを活用しています。特にFacebookは400万回アクセスし、エスペラント講習会についてのホームページにはすでに、1,400万回アクセスしています。私は、出口日出麿先生のお言葉で自分を鼓舞しました。消極は地獄、積極は天国。私にとって積極とは行動を続ける事でした。


エスペラントの宣伝に今までにどれくらい出資されましたか?

 2013年まで、私は100万ドル(1億円)以上使っています。24回の全面広告費、秘書の雇用、旅行費用、重要人物の招待費などを含みます。白鳥賞についても言及しましょう。その名前はSwany と同様に、私の市の昔の呼び名である白鳥を暗示します。白鳥賞はEUの国々のUEA(世界エスペラント協会)組織で、最も熱心にエスペラントを宣伝した会に助成金を与える事を目的にしていました。私の広告では、エスペラントチストの中に7名のノーベル賞受賞者がいることの誉れを強調しました。ドイツ人のラインハート・ゼルテンは数理経済でノーベル賞を受賞し、私の活動を支持してくれました。
 ポーランド国への功績をたたえる勲章は、独自の活動に卓越して国際協力に貢献し、ポーランド共和国を他国とその人民の懸け橋となる外国人に贈られます。2011年6月、ブロニスワフ・コモロフスキー、ポーランド大統領が最初の外国人エスペランチストに授与したことは、まさに光栄のいたりでした。そのような立派な国家の勲章を受け取ったことは、大きな名誉でした。
 (注7)ここの ordono はordeno の間違いと思われます。
しかし、その勲章は私と言うより、エスペラントであり大本信者に対しての授与であったことが、より嬉しかったです。大本に出会わなかったら、私は決してエスペラントと関わりがなかったでしょう。その勲章につながる、国際語の新しい展望が開きました。2012年10月、私も出席した、ポーランド共和国の上院で、重要な手はずが整えられました。35名の国会議員による、エスペラントを支持する公的国会グループが、上院議員であるエドモンド・ウィトボロッドの指導の下、設立されました。エスペラント誕生の国で、公的組織が世界の言語問題を理解し、その解決のために行動を起こす決意をしたのです。

三好さんのエスペラント、そして、大本とポーランドへの冒険はどのように始まりましたか?
 1999年、ベルリンでのエスペラント世界大会期間中、私はポーランドのエスペランチスト、ジョアナ・シドラックと知り会いになりました。彼女の声明は私の琴線に触れました。彼女は生涯をルドビーコ・ザメンホフの思想に捧げました。彼女の招待で私は、エスペラントとその創始者が誕生したポーランドを訪れました。ワルシャワでは、ルドビーコ・ザメンホフの墓を訪れ、その地のエスペラントチストと出会いました。しばらく前から、私はすでにエスペラントを学んでいました。
 (注8)Ekde とkelka の間にantaŭ が必要
 しかし、わたしは、独自で話をする機会がありませんでした。ワルシャワでは、誰も私を言語的に助けてくれませんでした。私は勇気を持って話し始めなければなりませんでした。まるで、奇跡が起こったようでした。私は理解し、理解されました。2003年、私は中世の壮大な城を誇るマルボルコ市のエスペランチストの招きで、再びポーランドを訪れました。現地のエスペランチストが「世界の公園」を準備してくれました。世界中のエスペランチストがその公園を訪れ、植樹し、そこに、それぞれの国の名前が刻み込まれた石を設置します。私は桜を植え、日本国の名と旗とともに石を設置し、除幕式をおこないました。そこには、大本のスローガンである「1つの神、1つの世界、1つの言葉」が彫られてあります。         (続く)