rakontoj el oomoto 15 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第15章
ARTO, PATRINO DE RELIGIO
芸術は宗教の母なり


 出口紅5代大本教主の招きにより、綾部に「ようげい道場」なる陶芸工房があることを知りました。5代教主は、歴代教主、教主補が陶芸家レベルにまで到達した、作陶の伝統を継続しています。陶芸は大本にとって完全なる芸術です、と言うのも3つの基本的要素、すなわち、栄養となる土、清めの水と火を含んでいるからです。茶道の為の茶碗作り、そのものが茶道です。作陶は、教主自身による祈りから始まります。今回は、前掛けのある作業着を身につけられていました。青い作業着のスタッフ数名が手伝っています。お祈りが終われば、ろくろの前に座ります。教主を手伝う金重友邦は、前屈みになり、両手で粘土の固まりを手渡します。それを、教主は会釈して受け取ります。教主の秘書である上田浩は、傍で霊界物語の拝読を開始しました。

 こねられた粘土の塊は、5代教主の手の中でかすかに輝いています。それを、注意深く、静かに見つめます、でもすでに、こねられた粘土はろくろの上に置かれています。ろくろが回り始めます。私のカメラはとらえます。美しい姿の椀が出来上がるまで、10本の女性の指が巧みに粘土の回転ペースを変化させるのを。ろくろは回転速度を落とし、止まります。女流芸術家とアシスタントは、無言で出来上がった作品を熟視します。お互いに言葉を交わさず、見つめ合い、うなずきます。「よい出来です!」アシスタントは、今出来上がった椀の底を伸びた糸で押しやります、ろくろから切り離すために。アシスタントは湿ったままの作品を持ち上げ、そっと傍の棚に置きます、次の作業や焼成の為に。教主は深く息をし、可愛らしく微笑みます。ヴォルテール(フランスの哲学者であり、作家、文学者、歴史家)は言います、「男の発する全ての理屈は、1人の女の感覚ほど価値のあるものではない」

 亀岡で私が聞いた事ですが、王仁三郎聖師は牢獄の中で茶碗作りの構想を思いついたようです。ちょっと想像しがたい事です!自由に使える粘土や道具のない、3㎡の独房の中で。でもそんなものは必要ありませんでした。王仁三郎の空想的イメージの中で、バーチャルな茶碗が創造されたのでした。いわゆる第二次大本事件に関して、すべての起訴が無罪となり、監房から出ると、出口王仁三郎は、完全に破壊された運動を再建するという大きな試みに立ち向かいました。しかし、同時に、あたかも、釣り合いをとるかのように、陶芸活動にも献身しました。熟練の陶芸家、佐々木松楽が、京都から亀岡へ住まいを移し、窯を立ち上げました。出口王仁三郎は、1944年12月、佐々木の仕事場を訪れ、粘土をこねました。1945年始め、王仁三郎は焼き上がったばかりの茶碗に一筆で鳥を描きました。その一筆書きの鳥は、パブロ・ピカソの有名な「平和の鳩」よりも早く誕生しました。

 当時王仁三郎は、60もの楽焼、言い換えれば、楽スタイルの茶碗を作り上げました。楽焼は16世紀に生まれました。その特徴は、自然の形や色、つまり黒色やこげ茶色からまだらの明るい赤色まで、そして濃い釉薬(うわぐすり)を用いることです。楽とは喜びを意味し、長次郎師(1515年〜1592年)から始まります。師が作品に楽を刻印として使い始めました。師は戦国の覇者、豊臣秀吉から刻印を受け取ります。秀吉は聚楽第といわれた京都の豪華宮殿を所有していました。聚楽第とは、喜びの場所のように訳されるでしょうか。楽焼は京都で、多くの匠によって近代まで継承されます。それを、大本教祖が取り入れるとは、驚くべき事でした。朝起きて寝るまで、楽を離さなかったと伝えられています。製作中も、御神号「惟神霊幸倍ませ」を繰り返していたようです。「惟神霊幸倍ませ」とは「神様の心のままに」と言う意味です。

 16ヵ月間で、出口王仁三郎は3,000もの茶碗を焼き上げました。その膨大な数よりも、その茶碗が持つ美しさに、より価値があるのです。色とりどりの色調、明るい釉薬で覆われ、抽象的な形で、調和を保つ豊かな趣、これら全てが、一般の見る人をうっとりさせ、傑出した陶芸家は賞賛の的でした。アンティークに関する名人が有名な2語を口にしています「輝く茶碗 誕生」。その名人は、あたかも出口王仁三郎の楽焼を、独自に「ようわん」と名づけました。輝く茶碗、ようわんの名前で、1949年、大阪市の阪急百貨店で初めて、王仁三郎の茶碗50点の展覧会が開かれました。ようわんは大本教祖の創造的天性に栄光をもたらしました。教祖は、書道、音楽、詩歌、文学、能楽、護身術、茶道等のさまざまな芸術部門で成功をおさめました。

 王仁三郎の多面的な芸術の才能は、宗教にうまく適応されました。なぜかと言えば、出口王仁三郎の考えの中に、「芸術は宗教の母」と言うスローガンが生まれているからです。この独創的思想について、出口王仁三郎は「霊界物語」の中で発表し、様々な形で表現を整えていきました。「宗教は芸術の母」と言う現在の学識者の考えに反して、彼は全くその反対を主張しました。終わりのない、広大な宇宙を創造された神は、偉大なる芸術家であられるはずです。天地創造の要因、それは実に偉大な芸術の萌芽なのです。宗教は、人間の手を口を通して、神の創造力と無限の意志の断片を実際に具現化する以外のなにものでもないのです。そうでなければ、宗教が神を作った事になってしまいます。芸術と宗教はあたかも、両親と子供達のようである。共に人間の心の中の情緒の絆を堅くし、そして地獄の苦悶生活から天界での生活へと導いてくれます。芸術と宗教は、あたかも夫婦、兄弟のように分割出来ない一対のものです。共に人生の指導者です。
 芸術への熱意は大本教義を特徴づけています。1952年、3代教主に就任した出口直日はそれを際立たせます。芸術は大本の宗際活動における有益な橋でした。1972年10月、「出口王仁三郎とその一門の海外芸術展」がパリのセレヌスキー美術館で開催されました。芸術展の中心となったのはようわんでした。加えて、王仁三郎の書や絵画も展示されました。同時に2代教主、3代教主、出口日出麿教主補の作品も展示されました。芸術展は3年間、ヨーロッパ、北アメリカ13都市を巡りました。たとえば、マルセイユ、ニース、ロンドン、ニューヨーク、サンフランシスコ等で開催されました。美術館だけでなく、礼拝所でも開かれました。それは、その後の諸宗教協調への道を開きました。

 1975年、米国で最も大きいキリスト教の教会が芸術展を受け入れました。ニューヨークの聖ヨハネ大聖堂です。そのオープニングで、信徒による大本祭典が行なわれました。ようわんはさらに、サンフランシスコに向かい、グレース大聖堂で展示されました。その時も大本の宗教的、芸術的プログラムが再び行なわれました。数ヶ月後、大本信徒は、ニューヨーク大聖堂での宗際会議に戻ってきました。国連発足30周年記念を祝して、大本祭典が挙行されました。

 芸術を橋渡しとした諸宗教の交流は、1977年、さらなる展開を見せました。ニューヨーク聖ヨハネ大聖堂長、ジェームス・パークス・モートン師が綾部に来られました。みろく殿でKiss of Peace のキリスト教との合同祭典を行いました。やがて、亀岡にサンフランシスコのグレース大聖堂長、スタンレー・フォレスト・ロジャース師が来られ、万祥殿で同様の祭典を行いました。同じ年、当時の出口京太郎総長はバチカンを訪れ、サンタ・マルタ宮殿で大本祭典を行います。その後、パウロ6世法王に謁見します。大本とニューヨーク聖ヨハネ大聖堂との祭典による交流は、伝統行事になりました。

 1978年、大本はネパールに足を踏み入れ、ヒンズー教、仏教徒の合同鎮座祭を行いました。1979年、聖書にあるシナイ山頂で、平和の為の第一回諸宗教の祈りに大本信徒が参加します。英国国教会との協調による活動が、再び展開しました。1980年、大本は英国のカンタベリー大聖堂との交流を実現しました。有名な能の演目である羽衣が披露されました。シテは、後の4代教主出口聖子でした。3年後、天恩郷で諸宗教による合同祭典が行われ、仏教、イスラム、キリスト教、大本、そして神道の参加がありました。祈りのテーマは、平和と創造でした。宗教における芸術の役割が言及されました。出口王仁三郎は、そのテーマを、生前に作った短歌でそれとなくささやいているようにも思えます。

  芸術の趣味を悟らぬ人々は
  地上天国夢にも来らず

 これこそ、芸術と宗教を和歌によって表現されたものです。大本では、芸術と宗教は、共に宇宙に対するお陰の気持ちにその根源があると考えられています。この特有の概念は、日本の歴史的体験が源です。何千年もの間、限られた空間(スペース)と粘り強く対峙し、上手に利用し、慎重に整えました。限られた空間は、芸術と宗教を正しく方向付けて、共に延びて行く事になります。そのことは、日本文化の中に反映しています。たとえば、歌、短歌、俳句に見られるように、詩の形体を短くするようなところに。限られたスペースの効果的な多目的の活用により、美の形体が現れます。たとえば、折りたたみ式の扇子、華道、庭園芸術、建築、踊りの芸術、書道などに。

 空間不足は、簡素化の美しさを喚起します。日本人は勇気をもって、元来あるものの簡素化を、まるで、無になるのではないかと思えるまでそぎ落とします。たとえば、華道においては、無限の広さを持つ宇宙を、左右50センチメートルの小さな容量の中で、小さな木々、枝、花等を用いて表現しようとします。能楽は象徴的です。すべての動き、ポーズ、演技者の身振りは、極めて簡素化されています。茶道や能楽は、共に中国で生まれましたが、日本人が独自の繊細さで、それぞれ全く違った日本風のものに作り替えました。ユニークで誇りに値するそのような培養物は、能楽の世阿弥や茶人の利休のような天才のお陰だけでなく、何百年間の絶え間ない洗練に負っているのです。

 パブロ・ピカソは、日本の簡素化された美しさに気づき、自己のキュービズムの試みに取り入れました。ピカソは、ギターを写実的に描かないで、コードのような数本の線を引き、その下に、共鳴板(ギターの胴部分)の穴のような円を描きました。簡素化の美しさは、限られた究極の空間のように、逆説的ですが、人間の創造力のために広い空間があるのです。私の日本人の友人はヨーロッパを訪れ、家庭であまりに多くの装飾が美的本質を失っている事に驚きます。茶道を知ることによって、私はその事を理解出来ました。日本文化には道という言葉があり、婉曲的表現を形作ります。神道は神の道、武士道は侍の道、一方お茶の道から茶道があり、総合的なお茶の芸術を表しています。

 私はこの道を数回歩きました。最初は1987年、ポーランドテレビの仕事で、当時総長であった出口京太郎にインタビューしながら。彼は、祖父の出口王仁三郎の生誕地で会う事を提案しました。そして、インタビューの前にお茶の点前を披露することも提案しました。お茶の亭主は、卓越した大本信徒の伊藤栄蔵でした。亭主は私を舟に案内、みずから舟を漕ぎ、家までおよそ10メートルの舟旅でした。その瞬間、私は理解しました。それは、名誉あるお招きですが、野蛮なヨーロッパの考えでは想像もつかなく、受けいれられないことです。10メートルは歩いた方がはるかに早いと考えるからです。お茶室内で、少しずつ神秘的な光景を観察しながら、参加していると、最後には感動的な印象を持ち始めました。偉大なる根源のシークエンスとして、インタビューは、ポーランドテレビの視聴者にうまく大本を紹介しました。そして、効果的にエスペラントを宣伝できました。日本人の出口京太郎が、ポーランド人に対して、エスペラントは大本にとって重要で有益な言語であると述べたからでした。

 2009年、私は姫路市のはりま本苑月次祭に参拝しました。祭典後、私はお茶室に招待されました。成人式の時で3人ずつ青年が入席していました。平らな飛び石を通り、茶室に案内されました。最後の飛び石は、少し高くなってにじり口に接しており、そこに、足を置かずに、入席します。茶室の中に入ると、まず恭しくお辞儀をし、床の間を拝見します。格言的な書と一輪の花、二つだけです。そして、片隅のお茶を点てる道具をじっくり見ます。そこには、ガラスの戸棚があり、細かく挽れたお茶が入った容器、竹で作られた筆(茶筅)、お茶をふりまく竹の小さなスプーン、釜から沸騰した水を汲むための木製の柄杓があります。床に四角の穴が掘られており、見る事のできないこんろがあり、炭を用いて火がおこされています。茶道のすべての道具は、独自の名前がある芸術作品です。本当に驚くべき事です。特に、美しく装飾された釜に、私の視線は釘付けとなりました。わきから、美しい着物姿の女性3人がお茶室に入ってきました(実際美しくない着物を私は一度も見た事がありません)。1人はお茶の準備に向かい、2人は板の上にもちをのせて運んで来ました。言い換えれば、粉にした米、赤いまめで飾られたお菓子です。厚みのない箸でそれを頂きます。女性亭主はお茶を点て始めます。彼女は容器から、竹のスプーンを用いて粉末の緑のお茶をすこし取り出し、茶碗に入れます。そのあと、彼女は釜のふたをとり、沸騰した湯をすくって、茶碗に注ぎます。亭主はわきに柄杓を置き、手で竹の茶筅をとり、お茶の粉末と湯を混ぜます。そのあと、茶碗を持ち上げ、女性半東に渡します。すべての行動は思慮深く、エレガントに進められました。茶道において、42の形として決められている動きがあるそうです。

 私は、20歳より3倍以上の年齢ですが、お茶に招かれたことを名誉に感じました。亭主は手に茶碗をもって、じりじりとひざを動かし私の方にやって来ました。彼女は茶碗を3度回し、私が装飾された正面を見れるように、畳の上に置きました。その後、ほぼ同時にお辞儀をして、成人式に出かけて行きました。私の人生で、これほどの威厳と優雅さで、おもてなしをされた事はありません。その代償かもしれませんが、私は、通常の日本のしきたりに従って座らなければなりませんでした。ヨーロッパの人間にとって、畳に垂直に伸びたすねのふくらはぎを臀部で押して座る事は容易ではありません。そのような姿勢は、レストランや家庭に客として招かれた時でも、気兼ねなく、避けていました。しかし、お茶室では、文化の違いに、果敢に耐える事が必要でした。



 私の前には、芸術的価値のある楽焼きに入れられた気品ある飲み物が置かれています。注意深くいただかなければなりません。お茶室ではブレスレットや指輪は絶対にだめです。私はお辞儀をし、大切なお茶碗を両手で持ち、私の右側に置きます。右隣の人は感謝を会釈で表し、私もお返しの会釈をします。続いて、同じ会釈を左側の人にもします。左側の彼はお辞儀し、私もお辞儀し、茶碗を持ち上げ、左の手のひらに置きます。右手の指で茶碗の側面を支えます。その茶碗は黒く輝いていました。私の目の前にも、簡素化された緑の松の絵柄が対比しています。茶道の重要な瞬間です。目立たぬように示された美への鑑賞。目を満足させながら、茶碗を3度回し、飲み口に絵柄がこないところで茶碗を止めます。やっとお茶がいただけます。少しずつ。 液体は明るい緑です。モスリンの泡が覆っています。茶筅でかきまぜることによってできたものです。そして、その味は?それは、個人の印象によります。ここでも、昔から言われている事が当てはまります。「人の好みを議論する事はできない」
 茶道は、最も重要な日本文化現象の1つで、茶の湯と呼ばれています。「茶」はteo を意味し、「の」は所有格の働きで助詞、「湯」は沸騰した水です。 大本信徒の中村田鶴男により、エスペラントで書かれた日本小百科事典では、新語としてĉanojo を生み出しました。いわれるように、日本人はお茶の道のような文化的なものを隠喩で名付けています。お茶を飲む習慣は1000年程前に中国から伝わりました。しかし、茶道としての形式は12世紀に形作られました。その300年後、将軍足利義政の治世に、茶道が正式な日本文化として、体系化されました。海外の読者にメッセージとして、先ほど紹介した日本小百科事典の前書きには参照として、イエスが魅了された、主に育まれた天国の鳥や、野に咲くユリについて、その美しさはソロモン王のすべての栄光でさえ陰に隠れてしまい、比較できないと書かれている事に驚きます。そして、著者は、東洋の賢者達が同様に、簡素の美を賞賛する言葉を引用しています。日本人は「さび」という言葉を使ってその気持ちを表現します。洗練された簡素さは、特に茶室の唯一の装飾として1本の花で表現されます。さびは原則として、簡素な事柄の中に美しさを見いだす状態で、日常が最もすばらしい日なのです。人生には道があり、茶の道は、とりわけそれを代表しています。

 茶の湯の精髄は、4つの言葉で表されます。調和、尊敬、清浄、静寂。それぞれが、与えられている精神状態を反映し、手にお茶の入った茶碗を持ち、己自身を深く見つめ、自分を取り巻く世界を知覚し、果たすべき役割を理解する努力をします。それは、まさにまばたきをする間、つまり我々の人生の瞬間におこないます。茶道の複雑な所作、そのトータルな規範を、我々の精神状態の外的兆候として受け入れる必要があります。と言うのも、規則を遵守する事は、我々の内的精神を鍛える事になるからです。茶の湯の形式的所作は、微妙に各流派によって違っています。茶道文化の中心は京都です。

 茶道は道として人生のテーマを含んでいます。ヘラクレイトス(ギリシャの哲学者。紀元前5世紀頃)の「万物は流転している」を思い出しませんか? 茶の湯の神髄である己を見つめなければならない事は、テーベのアポロン神殿門に書かれたソロンの知恵を連想しませんか?「汝自身を知れ」「茶道」は私に意識づけます。もし、外国の、そして、はるか離れた文化にその普遍的価値をもつものがあるなら、どのようにして、それらと茶道を互いに融合させる事ができるのか。
 日本伝統芸術は、形として、古代、極東の地で発祥していますが、その精神は、明らかに普遍的な要素を含んでいます。まさに、その動機によって、私が考えるのは、みろくの世への過程で、重要な働きの1つとして、古い芸術を培うことを考えているのだと。

 日本人は、常に自己中心的な国家概念、地理的に限られた空間からより自由になっていますが、自己の文化の独創性は守っています。別の面では、日本人も国際化しています。茶道は今、折りにふれ日本でも行なわれています。しかし、大本では、世界に普遍的な人の道を茶道、つまり茶による人の道を歩んでいます。


(続く)その16