rakontoj el oomoto 14 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第14章
POR KIO ONI NASKIĜAS?
何の為に人は生まれるのか?



三好鋭郎さん、人はしばしば自分の子供時代を幸福の時代として記憶しています。あなたもそうですか?
 少なくとも、同級生の教科書を水に浸けて、報復感を覚えた時はそうでした。その同級生は、私の身体障害(ハンディキャップ)につけ込んで私を一番いじめました。その少年は、他の生徒にも、そうするようけしかけました。女生徒にさえも同じ事をさせました。彼らは頻繁に私をたたいたり、押したり、そして叫びました。さぁ、捕まえてみろ!でも私は一度も彼らに追いつく事はできませんでした。


あなたのハンディキャップは生まれつきですか?
 私が高い熱を出したことに母が気付いたのは、私がまだ6ヵ月の赤ん坊の時でした。母は、最初ただの風邪だと思って、その対処をしていました。しかし、一週間後、母は私を病院に連れて行きました。医者は風邪対応を継続するよう指示しました。その後の検査で、医者は私の右足に損傷がある事に気づきました。そして脊髄性小児まひと診断しました。残念ながら、当時、そのような悪性の病気に対する薬は存在しませんでした。


三好さんはいつお生まれになりましたか?
 私は、1939年12月16日、四国の白鳥市でこの世に生を受けました。感染症は、そのちょうど6ヵ月前の6月に流行していました。ポリオウィルス(脊髄性小児麻痺)はまさに、夏の間に発症します。時は1940年、まさに困難な時代でした。日本は全体主義国家への変換期でした。軍により、広大なアジアの領域に大帝国を設立する計画が実現されようとしていました。経済全体が、近代的軍備の確立に関わっていました。私が生まれた頃には、兵士の数は150万に達していました。政府の帝国主義的行為は人民の必需品を脇に押しやっていましたが、健康保持についても同様でした。医者の多くは徴兵されていました。まさに、そのような状況下で、私の母は、私の治癒を模索して奔走していました。そんなことで、もし私の子供時代について聞かれたら、目の前に浮かぶのは母の心配顔、そして遠く、関西、大阪への度重なる旅で、私は、常に病院の診察室前で長く待たされている光景です。10歳までは、このような状態でした。一方、日本は敗戦による壊滅的状況、混乱と惨めさが続きました。人々は、広島、長崎後の新たな病にショックを受けました。脊髄性小児麻痺は流行病のように、日本列島を継続的に広がっていきました。


世界的大流行と言えますかね?というのも、当時、恐ろしいウィルスが世界中に広がっていましたよね?
 私が発病した頃は、脊髄性小児麻痺に対する有効な医療手段がありませんでした。
 脊髄性小児麻痺に対するワクチンを最初に作ったのは私の町に住んでいたヒラリー・コプロスキーだったことを思い出しました。
 はい、経口ワクチンについては聞いた事があります。そのワクチンのお陰で、世界中の何百万もの子供が救われました。ところでそのワクチンを作ったのは米国人でした。
 1939年9月、ナチスドイツとソビエトがポーランドに侵攻した時、若い細菌学者であったコプロスキーはソビエトの捕虜になりました。彼はうまく逃亡し、アメリカに戻り、そこでポリオウィルス(脊髄性小児麻痺)についての研究を継続しました。1951年、彼は息子に自分の作ったワクチンを試しました。驚くべき効果が示されました。後に、そのワクチンは、別の注射タイプのワクチンに置きかえられました。
 残念ながら、私はその12年前に生まれていました。伝統的な漢方薬は、当時ポリオウイルスに対して効果はなかったのですが、理学療法を用いて、麻痺の程度を軽減する効能がありました。私に対しては、次のように分けて、治療が行なわれました。たとえば、水、空気、電気、加熱、冷却、マッサージ、そして運動でした。その種の治療は、私の全人生についてまわっています。今でも、私は毎日40分間、10種類の運動をこなしています。一連の厳しい訓練をしなければ、私はずっと以前から車いすで移動することになっていたでしょう。


そして、でも自分で体を動かされていますね。
 成長するにつれて、私は、いつも、完全に回復するという希望は持っていませんでした。深く自分の不運を嘆きました、とりわけ寝る前の時間はそうでした。涙で枕を濡らしました。私の不幸は両親に打撃を与えました。母の目はいつも、涙で一杯で、深く沈んだ悲しみは明らかでした。母は、私の身体障害を自分の責任だと感じているように思われました。でも実際、母には何の罪もありませんでした。まったく逆で、母は私の病気を直す為にすべての可能な方法や方策を試みていました。父は、何も言わないことで、その苦しみを遮蔽していました。


お父様はどういった方でしたか?
 名前は富夫と言います。生まれた時、その母親は母乳が十分に出ませんでした。そこで、赤ん坊に授乳できる女性の家に預けられました。このようにして、三好家に迎えられ、6歳になるまでそこにいました。後に、実家に戻りましたが、実の兄弟からは「醜いアヒルの子」とみなされました。兄弟としてではなく、よそ者として扱われました。そして、養家に逃げて帰りました。家族は彼を養子にし、三好の名前も与えました。家族はみな親切でしたが、貧しかったので、彼を大豆工場へ働きに出しました。その工場の所有者は、最低限の教育と食事は保証しました。自身がまだ幼少であったのですが、社長(所有者)の子供達の世話をしなければなりませんでした。2・3歳の子供を含めて、皆は優しく彼を富夫さんと呼ばずに、馬鹿にしたようにと富夫と呼んだのでした。彼は、一番最後に冷たい残り物を食べる事が許されました。


そのような状況は長く続きましたか?
 成人して、彼は手袋製造所で働き始め、同時に手袋経営も学びました。そうこうするうちに、彼の養父は医療会社と契約し、自社製品を販売しました。セールスのため、彼は医療機器販売に一軒一軒訪ねて回りました。時が過ぎて、養父は家族への連絡が徐々に減り、ついには完全に途切れてしまいました。数年後、やっと連絡がきたと思えば、北海道で亡くなったとの知らせでした。私の父は、その時21歳で、伝統的儀式で死者を埋葬するという責任を背負い込んだのでした。10日後、父は死体にたどり着きました。死者は氷のように冷たい埋葬所で、雪を詰めた状態で氷漬けされていました。私の父は、町の遺骨係の協力で火葬を行なうため、その場で一夜を過ごさなければなりませんでした。日本の伝統にしたがって、父は白い布で覆われた骨つぼに遺骨を入れて、白鳥に持って帰りました。


それで、冒険は終わりになったのですか?
 1幕が終われば別の幕が始まりました。養父の死後、債権者達は養父の家族を見つけました。養父は、信用で医療工場の製品を、家から家へ訪問販売をしていたのですが、多くを売る事ができず、何とか自分の食いぶちを得ていたにすぎません。つねに、もっと売れる事を望んで、北へ北へと進み、ついに寒い北海道でみじめな死を迎えました。会社は裁判で処理され、家と家具は没収されました。養父の家族と父は、債権者の残りの要求に答える為にお金を借りなければなりませんでした。


どのようにして、あなたのお父様は、ご自身の工場設立に成功されましたか?
 お話ししたような苦しい体験が父を鍛え、創造力を伸ばしました。父は25歳で結婚しました。1937年、母の祖父の古いサイロに、父は小さな工場を立ち上げました。大胆にも、「三好織物産業」という看板をかけました。実際は、織物から手袋をつくる小さな工場でした。父が生地を裁断し、母が手袋を縫いました。徐々に、両親は皮手袋も作り始めました。このようにして、お金を蓄え、ミシンを備え付け、数名の女の子も雇えるようになりました。父は話してくれた事があります。
「私は、縫い作業をする従業員を残して、よく現場を離れる事がありました。ある時私が帰ると、作業場には誰もいない。周辺を捜すと、縫い物をしているはずの女子達が海水浴をしていました。早く上がるように注意したのですが、戻ってきません。海の中に、裸で戯れていたからでした。」


楽しい海水浴の後は、縫い物のスピードも上がったのでは?
 その通り。でも、売る事が出来ないと言う壁もでてきました。父は、ビジネスの成功は次の原則による事を知っていました。「顧客との接触が多いほど、売り上げもよくなる」 父は厳しい労働の後、商品を紹介する為に、夜行列車で日本中を駆け回っていました。父は慎重にもう一つのモットーに従っていました。「収入を増やす為には、支出を押さえなければならない」 製造した手袋を発送するには、100対(個)ずつ木材の容器に梱包しました。釘打ちされた木箱に収められていました。父は節約目的で中古の箱を購入し、修理して使っていました。学校から戻ると、リサイクルのため、私は引き抜いた釘をまっすぐにしなければなりませんでした。ある時、私は同級生と遊びたかったのですが、父はいつものように、私に手のひら一杯の曲がった釘を渡しました。そのうちのいくつかを、私は急いで真っすぐにして、でも残りは道に捨て、友達のところに走っていきました。家に戻ると、父は私の仕事をチェックし、私は仕事がうまくいったと、嘘の報告をしました。その時、父は手を広げ、回収した曲がった釘を見せました。私は赤面しましたが、父は静かに私を諭しました。「すべての物は神様から与えられている。だから、投げ捨ててはだめだよ」


お父様は、大本の信徒でしたか?
 はい、父は、17歳になるかならない時、大本に導かれました。大本は父を引きつけました。とりわけ、社会正義の概念において、人々が不平等に扱われているという差別を受け入れる事が出来ませんでした。父は幼い時より、その不平等な相違に大変苦しんできました。加えて、大本は人間は皆同じ価値を持っている事を信じ、生まれながらの相違は、社会を創造する障害にはならないと考えています。それぞれが喜びと満足を感じて生活し、個々の能力に応じて貢献できるのです。1934年、父が27歳のとき、白鳥町におよそ100家族を抱える大本の支部を設立しました。支部は、自宅に置かれました。その1年後に、恐ろしい弾圧が始まりました。いわゆる第二次大本事件でした。警官が突然侵入し、父を逮捕、邪教から離れるように命令しました。父はその命令に反論し、抵抗しました。しかし、信仰を捨てる事を誓うように迫りました。父は屈服しました。家族を餓死から守るために。


そう言った政治的な状況で、お父様は結婚への障害がありませんでしたか?
 母は、大本と何の関係もありませんでした。そして、彼女の両親は、国家のプロパガンダを強く信じていました。娘が大本信徒と結婚する事には反対でした。しかし、母は親の反対には逆らわず、後に、自分自身で大本に入りました。私が病気になってから、母は日本じゅうの医者のもとへ私を連れて行きました。母は、多くの人が病気と社会の不正に苦しんでいるのを目の当たりにしました。母は自分の信条に従い、年々、大本の活動へ熱心に参加するようになっていきます。とりわけ、経済的支援組織である「エスペラント友の会」を指導し、大本でのエスペラント運動を推進しました。


あなたの母方の祖父母は最後まで大本には反対の立場でしたか?
 祖父母は大本を激しく拒否しました。そして、家の神棚のそばで刀を振りかざし、大本を追い払おうと試みました。そして、それは、何年も続きました。しかし、ついに、亡くなる前には大本信徒になりました。


あなたの、身体障害は勉強の障害になりましたか?
 体を動かす事、勉強、労働は、私の中に希望の火花をともしてくれました。私の人生に光を与えて、夜空の星のように勇気を与えてくれました。しかし、学生生活が終わり、幸せの絶頂にある時、運命は残酷な方法で私のハンディキャップを思い起こさせました。


あなたの健康状態が突然に悪化したのですか?
 体は元気になってきました。私は初恋をしました。私が好きになった人は、世界で一番美しく、思いやりのある、魅力的な女性でした。私は23歳で、天国への門が目の前で開かれようとしていました。私が、その魅力的な女性の夫となり、家族の一員になる事を想像していました。このように考える事は私に精神的な力を与えてくれました。私は、彼女も同じように思ってくれていると、恋する目で、彼女の振る舞いを見ていたからでした。しかし、女性は私のプロポーズを拒否しました。想像の中の幸せは、シャボン玉のように壊れてしまいました。残酷な現実の世界に取り残されました。そこには、私の居場所はありませんでした。意識がはっきりしない状態で、私は家に帰り、スクーターに乗り、出発しました。


どこへ?
 どこか、前方へ、世界の果てへ、人生の終わりに出会うために、人生にはもう意味がありませんでした。少し、われに返ると、東京に向っていることに気づきました。東京には兄の和明(よりあき)が暮らしていましたが、兄の家を目指したわけではありませんでした。突然、海が現れ、切り立った岩の間にジグザクの狭い道が始まりました。下を見ると、深い底でした。スクーターのハンドルを数秒間離しさえすれば、十分でした。目に見えない何か大きな力が、ハンドルを持つ私の手に加わりました。


そして、東京へは着いたのですか?
 20時間、休憩する事なく、走り続け、寒さが骨の髄までしみ込んで、兄の家に入りました。寒さで震え、変わり果てた私の姿を見てよりあきの家族は肝をつぶしました。私は、布団に体を投げ出し、号泣し始めました。間もなく、温かい布団の中で眠りながら、さらに泣き続けました。それは、目が覚めてから、言われてわかった事ですが。動揺した父は、飛行機の始発便で東京へやってきました。両親、家族は私が自殺を試みたと考えました。家族は、手厚い世話と慎重な思いやりで私を取り囲みました。


精神のバランスを回復出来ましたか?
 私の両親を含め我々は、大阪郊外の温泉に滞在しました。温泉に浸かりながら、相談して、私は亀岡の大本本部へ行って、1ヵ月間静かにそこで滞在することになりました。実際、そこで、40日間滞在し、万祥殿(1万の幸せを持つ祈りの場)で魅力的な修行生活を実践しました。


それは、いつの事でしたか?
 1962年、美しい万祥殿は建設直後で、大本運動復興のシンボルでした。出口直日3代教主、その夫である、出口日出麿教主補の時代でした。修行中、私は多くの事を日出麿先生から学びました。

1.物事を決して悔やまぬこと
2.言いわけを決してなさらぬこと
3.絶えず真剣な努力をなさること
4.頼まれないでも親切のありったけを尽くされること
5.御自身の巧妙手柄を決して自家広告なさらぬこと
6.偉そうな振りを決してなさらぬこと
7.物に執着のないこと

 加えて、出口日出麿先生は、私に気付かせてくださいました。すべての人は、神様から与えられた独自の使命を持っている。これが人生の意味です。
 私がこの世に生まれてきたのは、私にしか果たせない仕事があるのです。

結婚はどのようになりましたか?
 大本での修行を通して、生きて、活動するという強い衝動が、私の気持ちの中に蓄積されました。私は、父の工場に戻り、汗にまみれて、手袋を作りました。そして、真剣に、きちんとした家庭を築くことを考え始めました。自分の人格を客観的に評価する努力を始め、身体障害のコンプレックスを忘れるようにしました。最初、静岡県の女性を紹介されました。私は、全く彼女には乗り気ではなかったのですが、列車に乗って静岡に行きデートしました。帰宅するより前に、彼女のお断りの連絡が入っていました。その後、九州の女性を紹介され、彼女が働く京都でお会いしました。楽しく会話しましたが、まもなく人を介して、断りの返事がきました。ある時は、地元の女性とお会いしました。彼女はかなり優しく接してくれましたが、最終的な答えはノーでした。

女性達は自分の考えで結論を出したのですか?それとも誰かに決められたのですか?
 疑いなく、当時は、女性は自分自身で決める事は出来なかったと思います。両親の意見に委ねられていました。断られたのは本人の意思ではないと、私自身は解釈していました。それでも、実際は、常に落ち込んでいました。その時、私の叔父、叔母が結婚相手を世話してくれました。「お前の父親の工場に、鎌田ヨシ子というお嬢さんが働いているだろう。彼女は知的で、器用、そして美人だ。妻には最適の候補だ。勇気と自信を持って説得してみなさい。お前の不自由な足でも、彼女もお前と幸せになるだろう。」

その助言にすぐに従ったのですか?
 毎年、冬になると父は工場を閉め、労働者を解雇しました。彼らは、春になると再び雇用されました。1962年は、私にとって最も幸福な春でした。私は仲睦まじく、ヨシ子と働き始めました。一緒に手袋を縫う作業で、少しずつ、お互いに親密感を増してきました。ある日、私はコンプレックスを払拭して、彼女にプロポーズしました。彼女は、嬉しそうにイエスの返事をくれました。それは私の人生の転回点で、私は永遠に彼女を深く愛するようになりました。


(続く)その15