rakontoj el oomoto 13 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第13章
RADIKALE MALAPERIGI!
根本的に消滅させる!

  第二次大本事件は晴天の霹靂(へきれき=穏やかな空から雷鳴)のごとく勃発しました。1935年12月8日、夜明け前、午前4時、綾部、亀岡両聖地、加えて王仁三郎がその時滞在していた松江の島根別院も総勢780人の武装した警察官が取り囲みました。彼らは断固とした行動をとるよう命令されていました。つまり、抵抗すればピストルを撃ってもよいとの事でした。14年前の第一次大本事件では、突撃隊員達は1万本の竹槍を恐れました。今回、警察は、カービン銃とピストルを準備し抵抗に備えました。しかしながら、抵抗を受ける事はありませんでした。丸腰の職員が逮捕されました。その中には教祖出口王仁三郎、後に教主補となる出口日出麿、そしてまもなく2代教主も逮捕されました。自分への捜査について、出口王仁三郎は後年次のような逸話を語っています。警察官達は、必死で島根にいる王仁三郎を捜していました。「出口はどこだ?」と叫びながら。聞かれた職員は無言で出口を示しました。職員に激怒しましたが、返答は理屈に合っていました。出口とは外に出て行く戸口の意味だからです。 
 合計987名の大本信徒が逮捕されました。彼らは即座に厳しい尋問に遭いました。最初の質問は常にこうでした。「お前達の考えではどちらがより偉大であるか、天皇か?それとも王仁三郎か?」 そのような方法で、警察官は、天皇に対する不敬罪で起訴する証拠を無理矢理得ようとしました。加えて、国家転覆の企てと、大衆の秩序に関する法(治安維持法)を破ったとして起訴された人も複数いました。新聞紙法、出版法に背いた罪で起訴された人もいました。取り調べには拷問が伴いました。警察は、前もって供述調書を用意していました。うその自白にサインすることを拒む人は拷問を受け、最終的には暴力で調書に指紋を押すよう強要されました。第二次大本事件で、最も厳しい拷問を受けた犠牲者は出口日出麿でした。

 第一審の公判は4年近く続きました。1940年2月29日、4つの罪について判決が言い渡されました。裁判所は出口王仁三郎に終身刑を、54人の罪人に2年から15年の懲役を言い渡しました。訴訟として特に天皇への不敬罪、国家転覆の意図への罪が判決に強調されました。弁護の議論は全く考慮されませんでした。



 大本側の弁護士は、訴訟の再審を要求しました。第二審が半年後に行なわれましたが、審議は長引き、被告人はさらに牢獄で苦しむ事になりました。全体として、司法あるいは司法権に関する事ではなく、根本的に大本運動を抹殺するという具体的目的を持った政治的な企てでした。それは、実際まだ裁判が始まる前からすでに用意されていました。
 1936年5月、大本の苑内は有刺鉄線で周りを遮断されました。ダイナマイトを用いる特別隊が到着し、建物や動かせない物体へ塹壕を掘って攻めました。工夫達はダイナマイトを用いて、亀山に建つ石造りの月宮殿を完全に破壊しました。その時の大気の振動が亀岡全域の多くの戸や窓に響きました。破壊への勢いは決して衰えませんでした。出口なおの墓は、掘り返され石垣は倒壊されました。そして、木々は切り倒されました。一帯は荒廃し、綾部、亀岡両聖地は、さながら戦場跡のようになりました。
 その後、聖地には野生の植物群が繁茂しました。
 同時並行して、大本運動の組織的解体が行われました。
 警察は名簿、書籍、そして印刷物に関する資料、書類を没収しました。
 大本は、非合法の組織となり、いかなる活動も許されなくなりました。国家に隷属的なマスコミは「のろわれた宗教」について騒々しく触れ回りました。化け物のような指導者の抹殺と死刑を要求しました。
 国家の宣伝機関は、反国家的、反愛国的行動は、出口王仁三郎と全大本教団によるものであるとしました。もっとも事実はそうではなかったのですが。

 1926年、昭和の時代が裕仁天皇と共に始まった後、出口王仁三郎は、第一次大本事件の告発から最終的に、無罪が言い渡されました。

 当時、王仁三郎は国家政治に関して、忠実に行動し始めました。その土台の上に、大本は壮大な活動を展開しました。短期間のうちに、運動は外郭団体である人類愛善会の新聞を100万部発行しました。また、簡単な言語の翼(エスペラント)を用いて、ヨーロッパで活動を活発化させました。20年代の終わりには、大本は数冊の機関雑誌を発行していました。

 当時、世界的な経済恐慌が勃発していました。当初、日本は安価な商品を輸出することによって、利益を得ていました。しかし、その時期は長くは続きませんでした。 満州事変が1931年に勃発し、日本政府は国際連盟から脱退しました。日本は軍事的方向へと進んで行きました。軍国政治は、経済危機の影響で、国民に負担をかけました。
 日本人は同じような状況を19世紀の終わり、そして20世紀の始め、日清、日露戦争、朝鮮併合で体験しました。
 しかし、今回の状況は、より複雑でした。帝国政府は、組織的運動、特に左翼的な政治背景には反対しなければなりませんでした。
 迫害はインテリ、芸術家、そして独立した個人の思想家にも及びました。

 エスペランチストもまた、その中心円のなかに入れられました。警察の監視対象は、特に、中立運動へ向かおうとする人に向けられました。エスペランチストは、左翼あるいは自由主義者として知られ、疑われ続けました。たとえ彼らが、単にエスペラントを技術的により完璧に学ぼうとしていただけであっても。
1931年、日本プロレタリアエスペラント連盟が設立され、やがて、プロレタリア文化組織の共産主義的グループの一つになりました。およそ300名の熱心な会員を持ち、全国で講習会を開き、立派に編集された「同士」という雑誌を出版しました。中国や韓国で、類似した組織が拍車をかけるように誕生しました。すでに、1931年5月、東京での労働者エスペラント講習会のすべての講師は、講習会で教えることを強制的にやめさせる目的で逮捕されました。

 エスペラント運動史家であるウィリッヒ•リンスはその有名な本「危険な言語」で、プロレタリアエスペラント運動に対する弾圧について詳細に述べています。

 多くの逮捕者は、心理的抑圧、拷問により、すべての反政府活動をやめるように強制的に約束させられました。時に被害者は、再び自由を手に入れるため日本の正統的神話へ転向させられたように思えました。
 1937年、プロレタリア運動は消滅という最後を迎えました。いくつかの殉教の死が示すように。たとえば、雑誌『マルシュ』の編集長、中塚吉次のように。
 その他、注目すべきは、斎藤秀一。32歳で急性の結核になり、家で最期を迎えるため、特別に牢獄から出されました。

 彼は「ローマ字化」という雑誌を編集するエスペラントグループ設立で投獄されました。斎藤秀一が普及させていた考えとは、日本語のローマ字化とエスペラントは民衆と国家の解放への戦いで、互いに補い合うツールだというものでした。その一方で、帝国政治は反対の方向に進んで行きました。

 日本エスペラント学会に代表される中立運動は、国家帝国主義とザメンホフのエスペラント主義との要求の間で蛇行していました。それは避けられない事でした。

 たとえば、1934年、長崎での第22回日本エスペラント大会では、母国に飛行機を贈呈する決議がなされました。そうする事によって、日本のエスペランチストが非愛国者ではないことを示すように。 
 同じ大会で、大本のエスペラント普及会はエスペラントのJapanio, Japano のかわりにNipponlando, Nippono という単語を導入する提案をしました。しかし、現実には受け入れられませんでした。
 大本に関する迫害の理由の1つは、出口王仁三郎著の霊界物語でした。
 彼自身は、以前の起訴に対して無罪となっており、スーパーマンのようなエネルギーを持って全国で人気を博し、宣教活動を展開していました。
 1931年、満州事変が起こり、その後、政府はより強く愛国的な風潮を広めようとしました。スローガンが聞かれました。「非常時であり、国の精神、母国を守る」等の合い言葉。同年、出口王仁三郎は、昭和青年会を立ち上げました。その青年組織は、亀岡の天恩郷に本部を置き、壮大なる人類の精神を基礎に、昭和の偉大な神業に向かって献身的な活動奉仕を行なうという目的でした。その活動の中には、日本の空を攻撃から守る活動も含まれていました。時節も学び、実際に会員が出来る事を指導しました。

 1933年、日本が国際連盟を脱退して、国際関係において孤立を深め、国内の状況も悪化していました。ちょうどその頃、ヨーロッパにおける大本の活動は揺らぎ始め、「人類愛の家」の建設計画は失敗に終わりました。
 出口王仁三郎は、人民が何をおいても神に回帰することを喚起し、日本の使命を強調しました。しかし、当時はやりの排外主義とは、一線を画していました。

 1934年6月22日、出口王仁三郎の主導により昭和神聖会が設立されました。
 その会長に王仁三郎が就任し、様々な社会層の上流階層の代表を抱える、影響力のある日本の愛国組織になりました。
 非政治的で非宗教的な組織と考えられました。
 国家の危機に道を開き、争いのない、理想的な社会を建設する事が目的でした。

かりごもの
乱れたる世を
治めむと 
吾はあさ夕
皇道を宣る 

 出口王仁三郎会長が主催する昭和の聖なる運動(昭和神聖会)は昭和青年運動(昭和青年会/副会長は出口日出麿)を吸収します。その爆発的成長は大きな注目を集めました。
 会長は疲れを見せる事なく、次々と誕生する新しい支部訪問のため、日本列島をくまなく出向きました。会長は、各支部での前向きな活動への誓いも受けました。また、支部での歌碑の建立式にも出席しました。
 いくつかの傘下の団体によって、昭和神聖会は1935年には、800万人の会員を擁する大きな組織になりました。大本は、大きな情報手段の大きな潜在能力でもって神聖会を統括しました。考えてみてください、人類愛善会の新聞だけが当時100万部の発行でした。その事実は、政権を驚かせ、極端な反応を引き起こしました。

 1987年、亀岡滞在中、ありがたい事に私は伊藤栄蔵にお会いしました。
 その著名な大本信徒であるエスペランチストによれば、第二次大本事件は次のように見えたそうです。神聖会運動は民衆の組織でしたが、その指導的レベルにおいて、政治的に右翼と密接に結びついた人が存在していました。彼らの多くは右翼で、影響力のある重要人物でした。国家秘密警察は、組織の高い役職の人達が果たす、改革者としての働きを熟知していました。昭和維新を極秘に準備していました。別の言葉で言えば、国家転覆。まさに、それは政権が恐れていた事でした。
 政権は直接運動を攻撃したくはありませんでした。と言うのも、そうする事により、多くの右翼が政治的側面により、政府に対して立ち上がるかもしれない、潜在的な革命に、より意欲的になるかもしれないと考えたからです。大本を運動の総括として、危険におとしめ、演出されたプロパガンダを用い、民衆の支持を得て粛正することの方が賢明であると。

 秘密警察の特別なグループは、すでにしばらく前からその事について動いており、天皇への不敬罪を主張して8年前から大本に対し訴訟を再加熱させる提案をしていました。
 ところで、一般的に「天使」の称号は、日本では言葉通りに理解されています。主なる被告人は、出口王仁三郎で、天皇への忠誠心を見せかけながら、事実は自身が支配者になる目的であったと。
 大本運動全体が転覆への陰謀で起訴されました。天皇と国家に対して危険であるとの意図で抜粋された大本教義や、様々な出版物からの引用で、確証を得ようと図りました。
 まさに、その計画は、1935年12月8日に実現しました。

 捕らえられた大本信徒は、3平方メートルの独房に収容されました。同じ条件で投獄された唯一の女性が、2代教主出口すみ子でした。すみ子の膝にはってきたゴキブリ夫婦との友情について言い伝えが残っています。最初、すみ子が食事を分けてやったゴキブリ夫婦は、しばらく定期的に来ました。ある時やって来たのは1匹だけでした。恐らく妻に先立たれたのでしょう? すみ子は新しいパートナーを見つけるよう説得しました。恐らく、その助言が理解されたのでしょう。というのも、再び、そのやもめのゴキブリが二匹でやって来たからです。2代教主と教祖は 法的に大本の全財産の所有者として、綾部市、亀岡市へ両聖地を譲渡するサインを強要されました。

 すでに述べたように、主なる被告人である出口王仁三郎は、第一審で終身刑が言い渡されました。上訴審は1940年に10月になって始められ、120回の審議が行われました。
 判決は昭和17年7月31日に出ました。
 裁判長、高野綱雄のお陰で、当時の日本の司法の面目を一部保ったのでした。裁判長は、治安維持法違反に関する一審判決を退けました。
 このようにして、出口王仁三郎と大本は、最も重い罪である国家転覆の訴えから逃れました。裁判長は、宗教的教え、詩歌には訴訟の有効性はない、宗教と政治は様々な次元があるからだと述べました。当時の極限状態で、高野綱雄は主なる罪に対し、断固たる判決で自らのキャリア生命をかけたのでした。


 判決によれば、大本の教えを構成する宇宙観、神観、そして人生観は理にかなっているとの視点を述べています。裁判官はその他の訴えは認めましたが、同時に、保釈金で被告人達を釈放しました。 その決定は、最も長く牢獄で苦しんだ最後の3人の被告人に対してです。すみ子は6年と4ヵ月で再び自由を得ました。一方、王仁三郎と宇知麿は6年と8ヵ月で自由の身となります。その他61人の逮捕者の中、16名は無実が晴れるまで生きることはできませんでした。主に拷問による死が原因でした。
 「呪われた宗教」と強く吹聴していた雑誌報道は、上告審の判決には言及しませんでした。当時、より重要なテーマは戦争であり、日本軍の敗退がより確実な中でも、それをカムフラージュし、勝っているようにする事でした。最後は、広島の恐ろしい惨状と無条件降伏でした。次に体制機関の完全な崩壊が続き、役人の大量辞職と新しい政治システムの確立が米国占領軍の下、行なわれました。最高裁判決(1945年9月8日)と大赦(1945年10月17日)の結果、大本は晴れて無罪となりました。1945年12月8日、不便な交通機関のなか、全国から大本信徒が綾部に集まりました。第二次大本事件の終わりを祝う為に。まさに10年の間、信頼に値しない宗教、国家の裏切り者の信徒としての烙印を押され続けていました。

 大本は法人として、そして無実の罪に苦しんだすべての大本信徒は、国家に対して物質的、精神的被害への補償を受ける訴訟の権利がありました。何十億円もの補償になったと思われます。しかし、その訴えは始まりませんでした。出口王仁三郎は宣言しました。大本は補償を受ける事は出来ないのだ。補償は苦しむ民衆の税金なのだから。綾部、亀岡両市から、大本聖地が還ってきました。全国からボランティアの信徒がやってきて、廃墟の整備が始まりました。亀岡では、かつて月宮殿が建っていた場所に、廃材で月宮宝座が建てられました。綾部の本宮山と同じように、現在は禁足地になっています。

 1945年の終わり、出口王仁三郎は吉岡温泉で静養していましたが、その時、朝日新聞記者のインタビューを受けます。
 その時つぎのように語りました。後に吉岡発言(予言)として有名になります。「日本は今全く軍備がなくなった。それは世界平和の開拓者として聖なる使命を持っているからです。真の世界平和は、世界中のすべての軍備が廃止された時に実現するのです。」しばらくして、王仁三郎は弾圧のなかに「神の摂理」を見い出します。というのも、大本は戦争に加担する事が出来なかったので、平和を主張する権利があるのです。神は、戦争協力できないように私たちを牢獄という安全な場所で守ってくれたのだと王仁三郎は考えました。実際大本は、第二次世界大戦に協力しなかった日本で唯一の宗教団体でした。

 1946年、大本は愛善苑の名の下に再発足しました。まったく新しい建築プロジェクトによって聖地の整備が準備されました。出口王仁三郎は、変わらない情熱で整備を指揮しましたが、体力は衰えていました。
 1947年、王仁三郎は脳溢血で倒れました。1948年1月19日、76歳で昇天するまで、病床にいました。
 その間、すみ子は2代教主として大本を導き、1952年に亡くなりました。
 出口直日は3代教主となり、新生大本として、新しい時代の大本運動の歴史が始まりました。


(続く)その14