rakontoj el oomoto 12 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第12章
PER FLUGILOJ DE FACILA LINGVO
優しい言葉の翼を用いて

 ヨーロッパのエスペランチストが大本に気づいたのは1924年でした。世界エスペラント協会の雑誌「エスペラント」の3月号に、日本の新しい精神運動として、大本の記事が発表されました。その著者は、大本の理解者、八木日出雄で、大本運動の主なる原則を概略としてまとめました。それは、神の愛をもって、全世界を永久に調和の中で、1つに統一する。永遠の平和は、非軍備によってのみ達成できるとの考えです。反響は大きく、肯定的でした。その記事は、全世界のエスペランチストが共通に持つ考えに近く、愛、平和、調和のある共生といったゴールに触れていました。しかし、散発的な批判もまた聞こえてきました。カトリック教徒のエスペランチストは、大本の記事が掲載された雑誌の翌月号で、忠告(勧告)しています。聖書の中においてのみ、我々は、人類を永遠の平和と愛へと導く、すべての必要な教えを見いだす事が出来るのです。聖書に示されている神の法に従う事を除いて、我々は決して新しい予言者を必要としません。神の救い主である、イエスキリストご自身が警告されています。我々はまやかしの預言者を信じてはいけない、彼らは我々を別の道へ誘拐します、と。他方では、様々な国からエスペランチストが直接大本に手紙を送りました。そういった関心により、大本は、エスペラントを用いてヨーロッパで自分達の宣教を始める事を促されました。

 広まる思想の中には、大本と同じ考え、つまり独自の言語を創造した、ルドビーコ・ザメンホフの考えを鼓舞する団体もあります。エスペラントの創始者の人格が大本信徒の特別な注意を引き寄せました。すでに、大本がエスペラントを導入した1年後の1924年、世界平和に尽くした、過去の宣伝使として、エスペラントの創始者は、大本で慰霊されました。多くのエスペランチストが参拝する中、伝統的な祭官服の8人の祭官によって祭典が挙行されました。エスペラント講師の由里忠勝は、祭壇前でエスペラントの賞賛の辞を読み上げました。祭典は綾部の祖霊社で行なわれました。祖霊社は、祖先や縁のある故人が祭られているところです。

 亀岡の大本本部には、私の目を引くものがあります。愛善会の事務所の入り口にある紋(紋章)のなかにある緑の星です。紋章は宇宙を象徴し、大地、太陽、月を図解の組み立てで示しています。真ん中にある緑の星は、人類のアレゴリー(寓意、ある意味をほのめかすこと)であることがわかります。愛善会は宗教的に中立で、どの宗教に所属していようとも、愛善会の目的に同意する人なら、だれでも会員として受け入れるのです。会員は、愛善会バッジと人類愛善新聞を受け取ります。全国の読者への定期刊行物として、この新聞はエスペラントの大きな宣伝にも寄与しています。1926年以来、人類愛善会の機関誌は、発行部数5,000の月刊誌「オーモト・インテルナツィーア」としてパリで出版されていました。人類愛善会の規約に、会における国際関係の公的言語としてエスペラントを取り入れました。人類愛善会は、実際、大本の外郭団体で、とりわけ、エスペラントを用いて大本教義を広めようとしています。1924年の終わり、ちょうど愛善会設立の直前に、40ページのエスペラントで書かれた新精神運動、大本についてのパンフレットが発行されました。それは、45カ国、すべての認識されたエスペラントグループ、エスペラント普及会、青年部の支部に送られました。

 1925年、西村光月は、ジュネーブの第17回世界エスペラント大会に参加、大会副議長の1人に選出されました。長身で、伝統的着物で正装した彼は、参加者の視線の的でした。彼は大会で、日本エスペラント界、そして大本を代表して挨拶しました。その後、パリへ旅し、出口王仁三郎の委託により、かの地で大本、人類愛善会欧州本部を設立しました。その後2年以上、西村光月はヨーロッパで講演旅行を続けました。ミュンヘンでのドイツエスペランント大会にも参加、聴衆300人に大本について講演しました。1926年8月、エジンバラでの第18回世界エスペラント大会に出席、講演を行い、数社の大新聞から、とりわけDaily Herald からインタビューを受けました。後に、彼はチェコスロバキアで30回もの講演を実施しました。1927年11月7日、西村光月は喝采をうけて亀岡に戻りました。


 一方で、大本のエスペランチストの数は大いに増え、エスペラント普及会の雑誌 Verda Mondo は32ページになりました。1926年4月、綾部での大祭後、エスペラントの夕べが開かれ、歌、弁論、劇が披露され、全国各地から1,000名が集まりました。同年9月、およそ12名の大本信徒が第14回日本エスペラント大会に参加しました。 


 出口宇知丸は、大本教祖の名(ご名代)として、平和の天使、エスペランチストの重要な役割を力説しました。次の15回日本大会には、出口王仁三郎が参加。エスペラント普及会のお陰で、学校教育にエスペラントを導入するための多くの署名が、日本の国会に送られました。EPAの年次報告書では、支部の数が1927年には60にまで増え、600名に対して25のクラスが開催されました。


 新米のエスペランチスト達は、外国人とエスペラントで交流する機会がありました。1926年、世界旅行をする2人のドイツ人が、驚くことに、徒歩で亀岡に到着しました。彼らがどのくらいの期間歩いてきたのか、記録は解りませんが、次の訪問者は、チェコ人エスペランチスト、ボフミル・ボスピセルで、およそ1万キロを自分の足で制覇しました。パリに大本を設立するプロジェクトは進みました。1928年7月、西村光月は小高秀雄青年を伴い、シベリア経由でヨーロッパをめざしました。鉄道での長旅の後、彼らはエスペラント発祥の町、ワルシャワに到着し、レオン・ザメンホフに会いました。おそらく、グダンスクの世界大会1年前に、知り会いになっていたのでしょう。

 レオン・ザメンホフの職業は喉頭科医で、ルドビーコ(エスペラントの創始者)の兄弟の中で、最も活動的なエスペランチストでした。Pola Esperantisto (ポーランド人のエスペランチスト) という機関誌を編集し、エスペラント詩の分野で有名になりました。ちょうど西村が(日本を)離れる直前に、本の形でSinjoro Laudata(賞賛される人)賛美集が出版されました。詩と散文作品の収集で、いわゆる第一次大本事件の誤った告発(不起訴)の最終的解放に際して出版されました。レオン・ザメンホフは、自分の詩をその賛美集に寄稿しました。それは、エスペラント創始者の弟が大本について知っていたという確かな事実です。西村は詩集印刷の準備をしました。そして、恐らく、直接その賛美集をレオン・ザメンホフに手渡たすことが可能であったと思われます。

 2人の大本信徒はワルシャワを離れ、ハーグの世界宗教平和会議の為、ハーグに向かいました。その後、アントワープでの第20回世界大会に参加しました。1,500名のエスペランチストが出席していました。西村と小高は、大本の支部をペルシャに、愛善会の支部をニューヨークとブルガリアに設立するためのイニシャティブを取りました。1928年8月11日、二人は、人類愛善会ヨーロッパ本部のあるパリに到着しました。彼らの留守の10ヵ月の間、ブルガリア青年、シシコフがとどまっていました。1930年、西村は、エスペラントアカデミーオ会長のフランス人科学者ティオフィル・カートの推薦により、言語委員会のメンバーに任命されました。


 1929年、大本はパリで愛善堂建設に着手しました。壮大なエスペラントの計画で、その見積もり費用はおよそ100万米国ドルでした。出口王仁三郎が人類愛善会の名で先導した(イニシャティブを取った)のでした。そのプロジェクトは人類愛善会の機関誌Oomoto Internacia で告知されました。人々は、その計画を、国際語エスペラントを通して実現される全人類の目標として、夢を抱きました。愛善堂は、共通の祈りの場、会合所、美術館、図書館、クラブ室、そして訪問者の宿泊所を兼ね備えた多目的建造物として計画されました。告知された案内には次のように書かれてありました。
 建物はエスペラントによってのみ準備、運営される予定で、堂内ではエスペラントが唯一の公的言語になる予定です。その規模と荘厳さは、現在の宮殿に匹敵するはずです。

 大本は建設献金の大部分を供給する予定でしたが、同時に、貧富の垣根を越えて、心あるすべての人達に、愛善堂の為のレンガを持参するように呼びかけました。その考えは全エスペラント界に反響し、献金集めが進みました。1932年まで、31カ国375名が献金しました。獄中の19歳のブルガリア人から、心にしみる手紙が届きました。私がいま留まる地獄から、あなた様にお便りすることは大きな喜びです。愛善堂を建設するという、あなた様の高貴な意図に対して、敬意を表します。そして、ここに私の建設レンガ分として25フランをお送りします。私の2ヵ月分の労働全収入です。状況はうまく展開していました。1932年、パリにおける第24回世界エスペラント大会には約50名が大本分科会に参加しました。分科会の興味あるプログラムは西村とシシコフが準備しました。
 日本における成功の一覧はさらに長くなります。すでに、1928年、エスペラント普及会は、独自のエスペラント独習書を発行し、まもなく大本外で指導を始めました。たとえば、長島女学校の家政科、養蚕飼育高校などです。綾部では夏期集中コースが始まりました。Mano en Mano (手に手をとって)というエスペラントロンドが設立されました。その目的は翻訳技術の研鑽でした。1930年、EPA はその機関誌であるVerda Mondo のなかで、5ヵ月間のキャンペーンを発表、新たな会員を勧誘しました。特に、無料配布の独習書を用いて。それは大きな効果がありました。4月、伊藤栄蔵は高知へ赴き、全ての学校で講演しました。100名に対してクラスを持ち、300名のEPA新会員を勧誘しました。1930年から1932年全体で、数十の都市で170の授業を開催、およそ3,200名の参加がありました。


 他のエスペラント組織が大本に続きます。たとえば、JOBKラジオステーションが独自のクラスを立ち上げ、自分達の学習書2万部を販売しました。1932年、EPAは28名の若い講師を抱えていました。彼らの中で、伊藤栄蔵や平木隆次郎が抜きん出ていました。同じ年、京都エスペラント常設講座が設立されました。初級、中級の3ヵ月講座が2度開かれました。最初の外国人講師、ハンガリー人のジョゼフ・マヨールは西村と共にパリで働きました。マヨールは大本で数年間奉仕し、日本での国際語の普及に大きく貢献しました。とりわけ、独習者用学習書の録音に役立ちました。ツルレコード社発行で「話し方となぜ日本人はエスペラントを学ぶのか」です。


 かつて、大本の両聖地、亀岡、綾部で大祭の後は、本物のエスペラントの世界へと変わります。そこは、まるで大会が開かれているかのように、数百人の大本のエスペランチストが文化的、教育的そして娯楽番組に参加しているかのようでした。
 Verda Mondo が伝えるところによれば、1933年、EPAには92の支部があり、全体で212のクラスを5,500人対象に行なっています。加えて、3万人に対して136回の講演を行なっています。ラジオのプログラムを数に入れずに。大本エスペラント導入10周年、亀岡で特別な会合が招集されました。由里忠勝、八木日出雄、重松太喜三は、10年前のEPA設立の主役として、イベントにおける名誉ある客人として、大本教祖自ら亀岡の大本にある池で、船を漕いでもてなしました。出口王仁三郎によって作られた、暗記を容易にする和歌が、Oficialaj Aldonoj から追加1,000のエス単語として発表されました。1934年、EPAの事務所には11人のエスペランチストが働いており、海外部にはジョゼフ・マヨール、西村光月、大崎勝夫、中村田鶴雄を含む8人が詰めていました。

 数々の成功にもかかわらず、大本は愛善堂の建設計画を断念し、1932年の終わりにはパリ本部は閉じられる事になりました。その決定は2つの理由からです。1つは、日本通貨の劇的な価値の下落による余りにも大きな財政的負担。2つ目は国内外における不都合な政治的状況。30年代の始め、国際連盟を脱退した日本は、明らかに帝国主義的政治がなされていました。そこで、宗教を含むあらゆる日本によるイニシアティブは、フランスが指導的役割を持っていたヨーロッパの地域において無関心には扱われませんでした。日本では国粋主義的煽動が強まっており、エスペラント運動前進には都合の良い環境ではなかったのです。それは、日本エスペラント界全体に言える事でした。

 そう言った状況で、松葉訴訟が起こります。松葉菊延は、海軍工廠(こうしょう)の職員で、1931年の終わり、エスペラントが理由で解雇されたと言われています。松葉はエスペラントのクラスを持っていましたが、秘密警察の報告によれば、そのクラスのなかに1人の共産主義者がいたようです。当時、日本では共産主義者は公的平和と秩序の維持に関する法(治安維持法)に触れるとして、禁止されていました。共産主義者は、多くのプロレタリア・エスペランチストと同様、日本軍国主義の激動の中でスパイをつけられ、弾圧されました。帝国主義警察は公的活動から取り除きたい、あらゆる個人や組織に対して、この法を口実に使いました。

 日本のエスペランチストである小林司は、小説マルタの類似した運命について語ってくれました。マルタはルドビーコ・ザメンホフによって、ポーランド語からエスペラントに翻訳されました。後に日本語訳もされ、最初は書籍として、後に映画として有名になりました。突如、書籍も映画も、共産主義のプロパガンダとして没収されました。実際、そのポーランド人女性作家は、共産主義とはまったく関係ありませんでした。彼女は、ただ、女性の権利について訴えたかったのでした。

 同時期、エスペラント普及会は松葉への誤った訴えを取り下げさせるため、キャンペーンを開始しました。日本の内務省に対して、多くの署名を集め請願書を提出しました。請願書には次のようなことが、強調されました。ブローニュ宣言によって定められた、エスペラント主義とは、世界中にこの言語を中立的に使用出来るよう、それは全人類の文化を広めるツールだけでなく、エスペラントは日本にとっても様々な面で大きな恩恵を与えてくれると。EPAは、そのスローガンを掲げ自分達の活動を継続させました。エスペラントは、適切な言語ツールであり、これによって日本は言語差別から救われるのである。その意味でも、エスペランチストは反民族主義者ではなく、まさに真の意味における愛国主義者なのであると。同時に、ナチスドイツにおけるエスペランチストもまた同じ愛国主義的議論を用いて国際語を守ろうと、報われない努力を続けていました。


 1935年、日本で起こった、いわゆる第二次大本事件はエスペラントが原因であったのか? 実際、帝国主義による日本の体制は、大本の機能を禁止し、組織全体の基礎を崩壊させるため、全く別の理由を使いました。大本の廃墟のなかで、エスペラントもまた滅んでしまいました。



(続く)その13