rakontoj el oomoto11 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第11章
KOMUNA FONTO
共通の源


日本の人口は、全体で1億2千万人から成り立っています。日本人が、どの宗教に所属するかという公的調査によれば、1億5百万人が、自分は神道の信徒で、9,500万人が仏教徒、200万人がキリスト教やその他の宗教です。その計算によれば、日本の人口は2億2千万人まで膨れ上がり、合計は100パーセントではなく、170パーセントに達してしまいます。この怪しげなパーセントは、大多数の日本人が、複数の宗教を掛け持ちすると言う事実の結果なのですが、主に神道と仏教です。
大本信徒の三好鋭郎は、次のように言います。
日本は宗教のデパート(百貨店)で、私が生まれた時、両親は私を神道の社である、白鳥神社に連れて行きました。少年になると、私はクリスマスの踊りやお菓子が好きになりました。3歳、5歳になると七五三の儀式を行ないます。その年齢になると男の子は11月15日、神社にお参りし、今後の健やかな成長を神様にお祈りします。私の婚礼は大本祭典で行いました。そして、同じように大本式で埋葬される事を願っています。

 赤ん坊の誕生を神道の儀式で祝い、婚礼はキリスト教、葬儀は仏教で行なう多くの人がいます。ヨーロッパでは考えられない実践です!しかし、日本人の間では普通の事です。宗教という言葉の2つの意味を、区別しなければなりません。すなわち、正統派の信徒に加えて、多くの人は宗教を伝統と考えています。仏陀は誕生から1000年後、6世紀になって日本に現れました。その教えは、神々やこの世の生活について各地域の思想と交わり、国家神道として認定され、数世紀にわたり、国家の文化的発展に影響を与えました。仏教は何度も変容してきましたが、諸説混淆の要素から離れる事はありませんでした。その最も知られた日本的バリエーションは、瞑想を重んじる仏教の禅です。すべての知的活動外(無の境地)で、自然との神秘的共有を実践します。

 神道は日本の最も古い宗教です。世界の全ての物質には、独自の霊が宿っているという考えを土台とした、いわゆる精霊崇拝(アニミズム)の1つです。無限の神が存在します。神道は神々の道を意味します。信徒は自然と先祖を敬います。神道は初期において、支配階級と結び付いていて、それは古事記(712年)、日本書紀(720年)で確認されます。この古代からの信仰は、天皇(天の使者)の称号を用いた上位支配者の権力を正当化しました。神道は、典型的なシンクレティズム的(諸教統合、諸説混淆主義)宗教で、とりわけ、仏教との長い共生がみられます。いわゆる、明治維新(1868年)から、神道は公的に国家の祭祀として認められ、その地位は、新憲法がすべての宗教の法的平等性を公布した1945年まで保持されていました。

 そのような歴史的状況の中で、大本は神道の一派として誕生しました。新宗教として、初期の段階において、日本中心主義的風潮が強調されていました。大本は、日本語を用いて、世界の中で光り輝く神々の国として日本を見ていました。というのも、他言語の存在を意識していなかったからです。出口王仁三郎は、この概念を、神の目から見れば日本も外国の国々もない、という説明でもって翻しました。彼は、大本教義における、普遍的要素と大本特有の要素を区別しましたが、世界の宗教的、かつ道徳的統一に関する、日本中心主義的概念は拒絶しました。むしろ、彼の国際主義的姿勢は、全ての民族独自の文化への敬意を求めるものです。
 1921年の終わり、出口王仁三郎は仮出所し、自己の大作である霊界物語に取りかかりました。興味ある文芸的スタイルの中で、著者は多くの大本教義の側面を解説しました。とりわけ、「全ての宗教は同じ源から出ている」という万教同根について。艮の神、別名国常立の神は、1892年、出口なおの最初の帰神で次のように発しました。山と山との間の小さな川も最後には一緒に大きな川へと流れる(谷々の小川の水も大川へ末で一つになる仕組み)。これこそ神の計画である。1899年の啓示は、次の事を思い出させてくれます。神がすでに明治25年に出口なおに言ったように、すべての神々は一つの同じ源から出ているので、すべての教えの道もまた一つの筋でなければならない。(明治25年に出口なおに申し置きたが、神は元は1株で在るから、神の道は皆1つであるから、結局〈しまい〉には皆1つに成るのであるぞよ。)

 突然、出口王仁三郎は仮出所時に国際活動の新しい前線を開きました。理想国家を創設する目的を持ってモンゴルへ旅立つ自己の計画を、教主を継承することになっていた出口直日に内密に告げます。義理の息子(娘婿)である出口宇知麿は、計画実行の手はずを整えるようにとの手紙を受け取ります。同時に、義理の父は、東アジアの天地を霊的に統一し、そして世界を統一する意図について宇知麿に打ち明けました。宇知麿へのメモは、次のようになっています。「計画の結果は天の思し召し次第で、面倒な考慮は必要ない。まさに、王仁三郎は、30年間の夢に目覚めたのである。」
 出口王仁三郎の伝記作家である、伊藤栄蔵によれば、王仁三郎の最終目的は世界の精神的統一でしたが、目の前の目的はモンゴルの未開の土地を開拓し、宗教的王国を樹立することでした。その展望のなかで、出口王仁三郎は日本人、朝鮮人の食料問題解決に寄与する、現実的可能性を視野に入れていました。そうする事によって、食料不足による東アジアの大混乱を避ける事ができると考えました。その計画は、すでに、モンゴルに革命を輸出していた、ロシアの拡大に対抗する意図に気づかせてくれます。王仁三郎の大胆な目的は、アジアへの影響力拡張に邁進する、当時の日本政府の帝国政治に合致し、同時に、競争する面もありました。

 1924年2月13日、早朝、目立たないように綾部を出発した、数名からなる一行の最初の目的地は満州でした。出口王仁三郎には合気道の創始者である植芝盛平他、2人が同伴しました。彼らは急いで朝鮮を通過し、満州に入り瀋陽市に立ち寄りました。そこには、大本シンパのグループが待っていました。おそらく、その合同遠征隊は、少し前からそこで準備されていたのでしょう。その事は、モンゴルの将軍、盧占魁との間髪を入れない面談からも想像できます。満州は当時、名目上は中国の支配下にありました。張作霖将軍は、中国政府から独立して満州を支配していました。しかし、日本の協力を得て。1931年、満州は軍事的に日本に服従させられ、満州国という傀儡政権が樹立しました。

 モンゴルの将軍、盧占魁 は協力を宣言しました。彼は、武装した200名の義勇軍を動員しました。1924年4月、大本教祖は白馬にまたがり、将軍の指揮権のもと、満州を通過し、モンゴルをめざして行軍を開始しました。途中、王仁三郎は宣教を行い、人々の病気を直しました。その名声は広がります。盧占魁将軍は新しい男達を雇い、やがて、総勢1000人の兵をもつ軍隊に膨れ上がりました。その行軍は2ヵ月続き、おびただしい、冒険、奇跡、危険が伴いました。王仁三郎の孫である出口京太郎著、「巨人出口王仁三郎」にそのあたりの事が書かれています。1967年に日本語で、1968年、1972年にそれぞれフランス語、英語で出版されました。

 張作霖 は、引き続き極秘の報告を受け取ります。行軍は大成功のもと進んでいると、そしてモンゴル司令官は1万人兵士まで隊の規模を大きくする計画でした。その力を持って首都、庫倫(クーロン)を襲撃しようと考えていました。革命政権がウランバートルとこの名を変えました。当時、張作霖 は、彼の影響範囲の脅威が増してくるのを認め、これに対して劇的に反応する事を決定しました。彼は自分の兵士を送り、盧占魁の部隊の武装解除を行い、出口王仁三郎、そしてその仲間と共に盧占魁 を捕らえました。捕らえられ、移送され、銃殺のため立たされました。盧占魁 は殺されました。そして王仁三郎は、、、、

 その複雑な出来事には諸説ありますが、それぞれが奇跡として解釈できます。誤射がありました。カービン銃の故障。射手が銃の反動を受けて後方に転倒。次々と続く偶然。事の危険を知らされた日本領事は、緊急に対応しました。領事は処刑執行人と交渉し、王仁三郎を助ける事が出来ました。王仁三郎が罪人であり、仮出所の身である事を口実に。恐らく、より説得力のある、多分、経済的な議論が行われたのでしょうが、拘束中の王仁三郎とその同士は全員日本に移送されました。1924年7月25日、彼らは日本の地を踏み、2日後大阪にやってきました。出口王仁三郎は再び捕えられました。一時仮出所期間が終わったのです。



 モンゴル遠征の話題は日本で急速に広がりました。国中の雑誌がこぞって書き立てました。日本によって、アジアの王国が建設されると言う大胆な試みとして。驚きと賞賛が入り交じったものでした。船から降りると、王仁三郎は熱烈に歓迎されました。大阪では、信徒や一般の大群衆が彼を迎え入れました。映画会社の映画班が、人力車に乗った王仁三郎を、駅から牢獄まで追いかけました。そしてその模様を、後に、ニュース映画で紹介しましたが、当時、センセーショナルな出来事でした。人々は肯定的に解釈しました。それは、入蒙が、大本の聖師と呼ばれる人間の愛国主義的姿勢で、第一次大本事件中、あるいはその後に広がった呪われた宗教と言う、黒い伝説を覆す目的で世間に喚起したと理解されたのです。

 1924年11月1日、出口王仁三郎はほぼ100日間の勾留後、保釈金を払い自由になりました。大阪の拘置所を出る際には、信者、ジャーナリスト、そして好奇心に満ちた大衆に温かく迎えられました。教祖は拘置所で十分に休養し、エネルギーを蓄え、体重も7キロ増え、入蒙前のように仕事に復帰しました。万教同根を基盤に、再び活動を始めました。全ての宗教は共通の起源を持ち、同じ1つの神から出ているとの信条です。

 こういった考えの広まりは、王仁三郎への大衆人気のお陰で、実り多い土壌を持ち始めました。王仁三郎の人気は、逆説的ながら、入蒙において得られました。また大本自身が利益を得ます。1921年(第一次大本事件)中傷キャンペーンの結果、押し付けられた暗い伝説は、要人を含め多くの人達の目に明るく映るようになってきます。政界、学会、文化界からの卓越した客人が、目的を持って大本を訪問しました。特に重要なことは、他宗教の重鎮の訪問でした。特に海外から。亀岡大本本部は、当時集中的に建設が進みました。1925年、亀岡本部は正式に「天恩郷」(天の恩恵の庭)となりました。同時に出口王仁三郎は神の意思により、瑞霊真如聖師(聖なる人物で、霊的の瑞、絶対的真理)の称号を受け取ります。このきわだった名前は、世界をみろくの世に立て直す、というお筆先の啓示が王仁三郎に与えた働きを反映しています。教祖の水平機能の働きについて言えば、象徴的に水の働きであり、緯糸の機能です。開祖の垂直機能の働き、それぞれ火と縦糸の機能と比較関係にあります。



 出口王仁三郎は、宗際運動誕生の重要な人物になりました。1925年5月20日、北京において道教、仏教、イスラム、キリスト教、世界救世新宗、そして大本、それぞれの代表が集まりました。後に、朝鮮の普天教、そしてドイツの白旗団が加わりました。会議の結果として、世界宗教連合会が設立され、北京に世界本部が、そして亀岡に東洋本部が置かれました。宗教の統一とは、大本の概念から言えば、単に全ての宗教を1つにまとめることではありません。形式はそれぞれ違っていても、全ての宗教のエネルギッシュな力は宗教間の障害を取り除き、全人類の幸福の為に共に働く事に集中させるべきであります。すべての宗教が共通の源から出ていると言う考えに基づいて。その目的は、多様性の中での人類の一致なのです。

 同じ年、宗教界の境目を越え、人類愛善に基づいて、大本は、前に一歩を踏み出しました。それは、人類は神の働きの喜びの中で生きる、という世界平和の理想実現の高貴な役割を含んでいます。その思想は、大本の外郭団体としての人類愛善会(UHA)設立へとつながりました。その趣意書の中で、人類愛善会は愛と友好の世界を造る意図を発表しています。その目的は、戦争のない世界だけではなく、すべての生き物が幸せに調和を持って共に暮らす世界で、人間、鳥類、昆虫、魚類、植物、木々など全てを含んでいます(人群万類)。会の主なる役割は宗教間、民族間の基本的な憎しみを取り去ることであり、宗教間対話(運動)エスペラントを支持しています。実にザメンホフのホマラニスモの思想に類似しています。その実現に、エスペラントは必要なのです。

 すでに、その2年前の1923年には大本エスペラント会が設立されました。この会は後に大本の外郭団体のエスペラント普及会となります。1924年には大本海外宣伝部が開設されました。その時、出口王仁三郎は例の大阪拘置所に収監中でしたが、うまく手紙を送る事ができました。その新しい小さな組織の立ち上げについて記念すべき出来事として、そして長年の望みを実現する為の第一歩であると言及しています。その時王仁三郎は12の短歌を即興で加えていますが、その中で、海外の大本運動にとってエスペラントの重要な役割を歌っています。1年後、海外宣伝部の事務所は6人のエスペラントを話すスタッフと共に綾部から亀岡に移されました。
 出口王仁三郎は、1925年10月京都で開催された日本エスペラント大会に参加し、講演を行ないました。そこで、ジョークを飛ばしました。
モンゴルの地でとりわけ、私が驚いた事がありました。牛、馬、犬が鳴いていました。鶏も鳴いていました。しかも日本語で。しかし、すぐに気づきました。彼らは日本語で鳴いていたわけではないのです。国際共通語でした。なんと恥ずかしい事でしょう。人間だけが、万物の霊長と威張っている人間だけがまだ、共通言語を持っていないのですよ。



(続く)その12