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Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第10章
CENTMIL BAMBU-LANCOJ
10万本の竹槍

 1921年2月12日の夜明け前でした。出口すみこは不意に目覚めさせられました。綾部の聖地に、多数の武装した警察隊の襲撃。
 最高司令長官は、力ずくで2代教主のところに押し入り、天皇のそれに類似した、錦の御旗を手渡すように命令しました。すみこは最初唖然としましたが、まもなく誤解であることを察しました。長官は、大本で織られた錦を引き渡すように要求しました。すみこは、そのような旗印は、形として目に見える物ではなく、筆先に見られるメタフォー(隠喩)としてだけ存在すると説明しました。筆先について言えば、その中で、開祖と聖師の経糸、緯糸の機能、それは神の経綸に沿って織り込まれている美しいデザインを持つ錦織の働きが、暗に言及されています。まもなく明らかになったのですが、大本は既に、その襲撃の2年前から秘密裏に監視されていました。警察は分厚い訴訟ファィルを集めていました。その目的の為に、警察は出口なおに啓示されたお筆先も研究していました。

 襲撃に、200名以上の警察官が動員されました。彼らは、綾部、亀岡両本部を同時に包囲し、全ての角度から、建物、神苑を綿密に捜査していました。没収された中には、出口なおの啓示が書かれた和紙、文書、手紙、原稿、校正刷り、日記、会計帳簿、そして写真がありました。大量の押収品は明らかに、侵入者達を満足させませんでした。彼らは、捜索ですべてを発見したわけではなかったからです。後に明らかになった事ですが、捜索の主なる目的は「竹槍10万本」でした。言い換えれば、国家に対する謀反に使われる武器やその他の道具でした。

 出口王仁三郎は、日刊紙、大正日日新聞の本社で、社主として、捜索され、逮捕されました。大本は1920年に新聞社を買収しました。その1ヵ月後、大本の看板の下で、第一号が48万の部数で発刊されました。宗教運動の手によるこのような大きな日刊紙は、日本では未曾有であり、恐らく世界でも、かなり稀なことであったと思われます。出口王仁三郎と共に、新聞社社長の浅野和三郎が逮捕されました。これが、大本第一次事件として知られている出来事の、核心的ポイントなのです。

 第一次世界大戦は19世紀の秩序を壊し、新しく、よりよい世界への展望を開きました。革命の熱は、ヨーロッパを揺るがしました。そこから、急進的な変化と、揺るぎない平和の希望への思想が広がりました。改革の雰囲気は、日本で好意的に受け入れられ、特に大本には新しい勢いがもたらされました。開祖は昇天されたところでしたが、自身の立て替え、立て直しに関する啓示の中で、あたかも復活したように思われました。正統派信者のグループは、立て替え、立て直しの実現が近づいたとの望みを持ちました。彼らは、開祖の生き方に厳格に従いました。早朝の水行、つつましい食事、質素な服装等です。このようにして、筆先の実現を歓迎する準備の為、彼らは自分達のみたま磨きを行いました。大本信徒は爆発的に増えました。お筆先は知識人、上流階級に浸透しました。新しい信徒の中には、大本の聖フランシスコと呼ばれた谷口雅春、そして浅野和三郎と言った、抜きん出た有能な組織人がいました。共に、熱心な立て替え、立て直しを信奉する信徒でした。

 浅野は、立て替えはすでに大正10年(1921年)に始まると公示しました。浅野は、立て替えに熱狂的で強力なグループを集めました。彼らは馬、車、太鼓を動員しました。通りで劇的なトーンで演説を行い、旅館、劇場、そして会議場で話をしました。そのような場所での宣教は、1920年に高まりました。大人数の集まりが、主に大学の講堂で企画されましたが、劇場やその他の公的な集会所でも行なわれました。たとえば、浅野は、大阪の中之島公会堂で5000人の聴衆を相手に講演を行いました。彼は、やがてくる獣の世界の立て替えについて、うまく講演しましたが、自動的に世界の終末論的風潮を鼓舞することになりました。地上には、世界の終わりと言う恐怖のサイクルが漂っている時代でもありました。

 出口王仁三郎は、恣意的な筆先の解釈には警告を発しました。王仁三郎は、啓示はいつ、どのように立て替え、立て直しが実現するかについては明らかにしていないと、注意を喚起しました。手に入れたばかりの大正日日新聞の中に、出口なおの啓示が同じように紹介されていました。
 新聞は以前とまったく同じように一般的な情報と記事を内容としていましたが、以前のバージョンとは大本と神諭の公表についての情報において違っています。
 神諭は、世界の立て替え、立て直しを予言しており、その文脈において、現実の世情を批判しています。大本の新聞は、不正義に強く反対し、軍国主義を非難し、平和を擁護し、改革を促したのでした。発行部数を考えてみれば、大本がその考えを100万人の人達に取り次いでいると評価できました。その人達の多くは、緊急に行なわなければならない御用として立て替えを認識しました。

 国家治安当局(国家シークレットサービス)は、大本の活動を注意深く観察し、最新の啓示を読み、恐らくこのように考えたのです。その啓示とは・・・強者は弱者を搾取する。自己の出世の踏み板として、弱者の汗と脂を利用して、強者は隠れてほくそ笑む。立て替え、立て直しを用いて、神は、上も下も平等に楽しむ神国を実現させる。神がすでに言っているように、国の治め方は根本的に変化する。この思想を、警察は実際に存在する革命宣言から直接抜粋されたように扱いました。様々な旗印の下、急進的な組織の力が育ってきました。たとえば、自由主義、社会主義、無政府主義、共産主義、国際主義等です。

 政治体制は、同時に、全く反対の方向にカジをきられました。その目的は、国家の中央集権化、軍国主義、そして国粋主義でした。まずは、すべての社会的組織を掌握し、服従させることが必要でした。それでも、どうして大本が国家暴力の対象の中心として現れたのでしたか?警察別働隊による突然の襲撃、彼らの攻撃性、捜索、没収、逮捕が驚愕させたのは、大本信徒だけではありませんでした。実際、大本のスローガンは、神に敬意を示し、天皇を敬い、国家に奉仕することだったのですから。
恐らく、治安に関する責任ある機関が、新しい宗教(大本)の大きな発行部数を持つ新聞、街頭宣伝、演説キャンペーンを用いたプロパガンダ(宣伝)能力を恐れ始めたのです。巧妙なプロパガンダは、大衆組織としての大本の急速な成長に寄与しました。そして、これらすべての上に、立て替え、立て直しに関する啓示が掲げられており、現実の脅威として認識されていました。武器を集めていると言う秘密警察の情報は、それを裏付けています。

 どれほど深刻に危険を感じていたかは、警察が検事総長の決断によって、攻撃を始めたと言う事実によって証明されます。しかし、疑っていた10万本の竹槍を警察官は1本も見つける事ができませんでした。出口王仁三郎は、逮捕直後に京都拘置所に送られました。起訴状は、天皇への不敬罪と新聞紙法違反でした。その間、報道機関のヒステリックなキャンペーンは大本に対して爆発しました。その中で、中傷、事実無根の事実などが使われました。例を挙げれば次のような見出しです。
「反逆の準備はどのようになされたか」
「隠された武器と弾丸」  
「竹槍10万本が用意」  
「国家転覆への大本の大陰謀」
「悪魔のような王仁三郎」
「呪われるべき宗教」
 疑いもなく、キャンペーンは国家機関、特に警察によって捜査され、意図的に偽りの非難が流されました。実際には存在しない、的外れで信用を危うくする目的を隠す為に。1921年6月、出口王仁三郎は4ヵ月の勾留の後、留置場から一時的に仮釈放されました。判決はまだでしたが、大本はすでに行政の言いがかり(揚げ足とり)に苦しみました。当局は、桃山にある明治天皇の霊廟と類似していることを口実に、開祖の墓を縮小することを要求しました。大本信徒は、なおのご苦労はまだ続いているのだと理解して、この命令を遂行しました。

 襲撃からわずか8ヵ月後、1921年10月、判決が言い渡されました。その結果、出口王仁三郎は、天皇への不敬罪で、懲役5年が宣告されました。浅野和三郎に対しては刑が軽く、懲役10ヵ月でした。弁護団同様、検察官も控訴し、裁判手続きはさらに継続されました。それにもかかわらず、大本に対する弾圧は止まなかったのでした。第一審の判決後、数日経って、綾部本部は本宮山に立ち上がったばかりの礼拝堂を壊すよう命令が下りました。50年前の大蔵大臣通達を適用したのでした。警察官の指揮権下で、およそ50人の労働者が、威風堂々とした礼拝所を、根こそぎ破壊し始めました。

 破壊する2日前に、お別れ祭典(本宮山告別式)が、19歳の直日を先達として行なわれました。聖地がバリバリと音をたてて壊されている間に、出口王仁三郎は霊界物語の口述を始めました。そのタイトルは、たまたま選ばれたわけではなかったのでした。
 物語は、ずっと以前1000年も前に日本文学の古典時代にも見られます。例えば、光源氏についての物語等もあります。自身の高熊山での修行についての記憶を、出口王仁三郎は、自発的に間断なく夜明けから夜の黄昏時まで口述したのでした。時に2晩(3日間)通して、360ページを口述しました。それは、恐らく世界規模で記録であると思います。それは人智を越えた霊感状態でした。1921年10月から1926年まで、72巻が著述されました。後に、口述は中断を挟んで1934年まで続きました。そのほぼ13年もの間に、全体で81巻が著作され、だいたい25,000ページに及びます。1巻はおよそ300ページです。

 霊界物語は、大本のご神書の1つとして認識されています。世界救済の教義と仕組を含んでいます。以前、開祖を通して受け取った多くの啓示により、王仁三郎に世界の救世主の役割が定められていました。霊的イメージを持ったスタイルによる物語は、多くの人生について、経済、政治、教育、芸術等のテーマに触れています。著者は多分、中有界での裁判について、自分の印象を思い出しました。自分に対する地上での訴訟がまだ終わっていない時に。

 大王に許されて、私は土地の守護神、芙蓉と共に傍聴者として裁判に出席しました。大王は、人が見上げなければならないほど高い、上階判事席へお出ましになり、2、3尺ある座席(およそ66〜99センチメートル)に着座されました。下の判事席には列をなして、恐ろしい形相をした審判の神が着座しました。裁判所の一番下には、多くの人達が地に頭をつけへりくだって座っています。私はあたりを見回すと、その中に旅行者が目に入りました。彼らは、私に続いて大蛇の川を徒渉していました。自分の判決の言い渡しを待っていたのでした。判決を待っていた人達は、日本人だけでなく、多くの外国人もいました。たとえば、中国人、韓国人、ヨーロッパの人達等です。

 状況を見て怪しいと思ったので、私は、ささやき声で神の使者である芙蓉に、その理由を尋ねました。なぜって?芙蓉はその質問には全く答えたくなかったようで、ただ頭を振るだけでした。私はそれ以上質問する事を控えました。
 しばらくして私は無意識に大王の顔つきを見ました。ああ! 私は驚きのあまり、ひっくり返りそうになりました。土地の守護神と芙蓉が両脇を抱えてくださりました。確かに、もし両人が支えてくださらなかったら失神したでしょう。大王の容貌は、たった今まで、非の打ち所のないほど堂々と、また温和で優雅、そして無限の微笑み。それが突然赤くなり、目は巨大に、口は両耳まで大きく裂け、焔の舌を露出していました。また判事達の顔つきも、恐ろしいものになり、その結果、私は即座に目をそむけました。裁判所全体を、大きな恐怖が支配し始めました。
 大王は、手招きし、中央の判事席に座っていた判事の1人を呼びました。その判事は、恭しく大王の前にやってきました。大王は、判事に1冊の本を手渡し、 それを判事は頭上に捧げ持って自分の席に戻り、1人ずつ名前を呼び上げ、罪人の判決を下していきました。名前を呼ばれると、守衛は順に該当する罪人を引き連れ、その後はどこかに行ってしまいました。裁判は、あまりに簡単で判決の言い渡しだけです。私たちの世界で見られる事前調査、控訴、最高裁、そして弁護人制度のような機能は存在しません。私は、振り向いて芙蓉を見て、尋ねました。「霊界の裁判はどうしてこんなに簡単なのですか?」 芙蓉は答えます。「人間界での裁判は、しばしば間違いを引き起こします。人は、目に見えない事柄を前にしては、、全くの無力です。だから、我々は注意深く何度も調査しなければなりません。しかし、霊界において裁判は、3界(前世、現在の世界、死後の世界)を見通す神自身によって遂行されます。どれだけ裁判の形が簡単でも、何の間違いも起こりません。加えて、罪の軽重、大きさは、大蛇の川を徒渉するとき衣服の色が変わることで、はっきりと解るのです。だから、さらなる裁判は必要ないのです。

 罪人めいめいへの判決が終わると、大王は静かに立ち上がり、自分の部屋に戻りました。私も、再び大王の前に来るよう呼ばれたので、大王を訪問しました。恐る恐る頭を上げると、その恐ろしい顔つきは完全に変化し、元の優しそうな、愛に満ちた容貌に戻っていました。

 一方現実の世界では、大本に対する訴訟はさらに続いていました。綾部本宮山の上の聖地は、基礎から破壊されていました。数少ない信徒だけが、破壊前に参拝することが出来ました。信徒は、憂うつな出来事も神のお仕組みとして、平常心で受け入れました。筆先には、心落ち着かせる事前警告が見いだされます。たとえば1900年には・・・どれだけ世界の人間が侮辱しようと、ジャーナリストが反対しようと、決して神の計画を壊す事はできない。神は、そのようなことで滅びるような力のない計画をたててはいない。訴訟は長引きました。その間、大正時代は終わり、裕仁天皇による昭和が始まりました。

 1927年、大赦が発せられ、大審院において、出口王仁三郎は一審判決が破棄された後、刑が免除されました。第一次大本事件の結果、数人の背教者(大本を離れる人達)も出ました。その中には、新しい宗教を立ち上げた者もいました。しかし、それは、私が読んだ限り、大本信徒の信仰と連帯をより強固にしました。


(続く)その11