rakontoj el oomoto9 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第9章
ĜARDENO DE ĈIELA
天恩郷

 鎧をまとった完全武装の侍は、中世の城の石垣の下で、勇壮な馬から降りました。雪のように白い顔をした若い女性は、侍女の助けを借り、日傘のついた、御車から降りました。なんて奇麗な着物でしょうか、なんて奇麗な髪型でしょうか! 侍女達は、行列で乱れた着物や髪型を整え、その美女が進むのを支えます。彼女は1人では動けません、と言うのも、お祭りの装束では彼女はほんの数センチしか歩けないからです。彼女をテーブルに案内しますが、そこにはすでに、1人の侍が仲間と共に、座っていました。彼らは缶ビールを飲んでいました。位の高い侍女のそばで、明るい色の着物を着た姫がコカコーラを飲んでいました、携帯電話で話をしながら。まさに数世紀の対面です。

 その光景は、亀岡の大本本部で見られます。中心広場には、中世の服装をした何百人もの人達が群がっています。近くの城の住民ですか? いえいえ、彼らは皆、祭りのパレードの参加者で、市内巡行の半分をすでに終え、そして今、大本の緑地を休息の為に訪れています。また、ここで立ち止まる別の理由があります。つまり明智光秀です。彼は天皇ではありません。将軍でもありませんし、偉大な哲学者でもありませんが、彼の名は日本史に刻み込まれています。毎年5月、亀岡での見ごたえのある祭りの儀式は、彼の事を思い出させてくれ、祭りの壮大さは、鮮やかな緑に色づく自然を強調しています。

 明智光秀は、16世紀に丹波地方を治めた領主で、壮大な城がある亀岡に住んでいました、その城趾は現在大本の所有になっています。明智光秀はそのドラマチックな個性により、日本文学そして民衆の意識を捉えました。ここで、日本人以外の読者で、学校で日本史の授業の内容を忘れた人、あるいは1度も学んだ事のない人のために、少し説明が必要と思われます。12世紀の終わり、天皇は、ヨーロッパでは皇帝と呼ばれていましたが、政治権力を失い、その権力は武士の身分から選ばれた将軍の手に渡りました。その状況は、ほぼ途絶える事なく7世紀の間、1868年、明治維新が始まるまで続きました。


 その長い激動の時代は、いくつかの期間に分けられます。16世紀を戦国時代と呼びます。まさに、日本では極端な封建的分裂で、実際に独立した多くの国が存在しました。大名がそれぞれの国を支配していました。このdaimiojという単語はエスペラントの辞書(PIV)で見つける事ができます。さて、回り道しましたが、明智光秀に戻ります。丹波の大名として、彼は、良き支配者、卓越した武将として記憶されています。自分の領地の安全を強固なものにしました。2つの要塞化した福知山城、そして、当時亀山城と呼ばれ、現在、亀岡にある城が、安全を守っていました。山の上にあった亀山城は、二重の石の城壁と堀に囲まれていました。難攻不落の防備設備(要塞)を備えていました。包囲されて危険な場合、保津川の堤を破壊して、侵入者を水死させることが出来たと思われます。

 戦国支配の時代は、1600年、関ヶ原の戦いによって終焉します。その戦いの勝者は、徳川家康で、日本全土を支配する権限を引き継ぎ、強力な徳川家の将軍支配を始めました。その時代は、ほぼ3世紀続きます。その間、日本は外の世界から隔離されていました。しかし、その時代、丹波地方、とりわけ亀岡は繁栄します。有名な哲学者、石田梅岩、そして、卓越した画家で、出口王仁三郎の祖先でもある円山応挙はこの地で生まれています。亀山城は全国で5本の指に入る、最も堂々とした城の1つとして知られていました。明治維新によって、日本の行政区画が変わり、その時、亀山(亀の山)は亀岡(亀の丘)に変更されました。別の県にある同じ名前の市との混乱を避ける為に。


 亀岡の侍祭りの重要なハイライトは、数メートルの高さの城のレプリカ(模型)です。そのレプリカ(模型)もまた、大本での休息タイムの間、他の行列参加者と共に休んでいるように思えました。しかし、再び出発の合図です。皆、立ち上がり配列の分隊を形成します。太鼓の音が響き、オーケストラは演奏再開、次々と行進を始めます。エレガントな侍女達は天蓋付きのひな壇に座り、運ばれます。屈強な男達に引かれた城の模型が、彼女達に続きます。そのすぐ後を、数名の侍に護衛されながら、仮装した騎乗の明智光秀が進みます。光秀の城は、今はわずかに礎石だけが残っており、その上には亀山と呼ばれる山が見られます。城は、19世紀に破壊されました。城の石は、特に京都ー綾部間の鉄道建設の為に奪われました。過去を知る唯一の生き証人は、巨大な銀杏の木だけです。その木は、明智光秀の手植えと語り継がれています。

 廃墟となった城跡は、幼い喜三郎のお好みの遊び場でした。後に、彼は出口王仁三郎として、面積ほぼ8万2千平方メートルに及ぶ土地を大本の為に取得しました。取得したいと願ったその夢は、1919年、現実のものになったのです。教祖はその場所に、教育、宣教、管理の仕事を行なう、もう一つの大本本部を建設する計画に着手しました。その計画の確立を、内部の問題が妨げます。問題は明智光秀でした。大本信徒のなかには「裏切り者、そして謀反人」によって冒涜された場所を神聖化する事に反対する人がいました。300年前に起こった事ですから、重要な事ではないと思うのですが。
 明智光秀は自己のパーソナリティについてアンビバレンス(二重傾向)の意味を残しました。英雄であり、裏切り者であるのです。戦国時代のある期間において、光秀は織田信長軍の中心的家臣でした。信長は日本を再統一する野望を企てました。そして、武器を用いて成功を収めただけではなく、巧みな政治力も駆使しました。たとえば、信長は宣教師がキリスト教の布教をすることを許可しました。それは、仏教寺院とのバランスを取り、その力を押さえる為でした。織田信長は自己の目的に近づいていましたが、1582年、家臣、明智光秀の謀反により、信長は自害に追い込まれました。裏切りなのです!陰謀を巡らして、主君を殺害する事は、武士道から逸脱した不名誉なことでした。この「武士の道」という言葉は、武士階級の倫理、不文律として名誉ある規範であり、絶対に敬意を払わなければならないものでした。それは、次のように言う事ができます。
「武士に二言はない」

 出口王仁三郎は、自分に背く教団幹部達に反論しました。王仁三郎は、明智光秀の徳と知恵を強調し、思いつきで織田信長に謀反をおこしたのではない、人々は光秀を誤解しているのだと述べました。その主張のなかで、人々は同じようにしばしば誤解される大本の指導者に対する当てつけのように考える事ができました。さらに、大本の教祖、開祖と明智の間には、明らかに神秘的な互換性が存在しました。彼らの城は福知山と亀岡にあり、なおと王仁三郎は、それぞれその2つの市の出身です。また、明智光秀の記憶を引き継ぎ、毎年厳粛に明智を祝う2つの市の人々がいる事実を決して無視できません。現在、亀岡の大本本部を訪ずれると、1世紀前の王仁三郎の決定が、神の摂理として高く評価されるのがわかるでしょう。廃墟の城を、聖地に作り替えるには巨額のお金と大変な労働力が必要でした。すでに、1920年8月には、広間を持つ建物で最初の講座が開かれました。まもなく、苑内は整備され、実質的な(事実上の)建設が始まりました。亀山山頂には堂々とした建物が立ち上がりました。その建物の中には、日本全国から集められた霊石が用いられました。出口王仁三郎はその建物を月宮殿(月の宮殿)と呼びました。最終的に、1928年に完成しましたが、すでにそれ以前1925年、亀岡の苑内は天恩郷(天の恩恵の庭)と名付けられ、宣教を目的とした大本本部として、公的に認可されていました。綾部は梅松苑(梅ー松庭園)として祭りごとの中心聖地となりました。このようにして、2人の教祖、2つの聖地というシステムが現実となりました。

 平和を求める記念碑が立つ山の斜面から、山々に囲まれた荘厳な亀岡盆地が広がっています。その平原の中心に島のように見える、緑のドームが目を引きます。まさに、その展望から天恩郷の名前が物語っています。緑の島(亀山、宝座)は市の密集した、灰色の建物の中に埋め込まれた、エメラルドの装飾品のように見えます。緑のドームから下を見ると、底には急流が流れる堀跡の為、市から隔離されたような、目を見張る大本の苑内が存在します。市の中心通りに沿って平行に並ぶ堀は、流水で満たされ、長さ100メートル、幅25メートルの池を形作っています。水位の上方に、堀の内のり面が立ち登っています。その面には木や小灌木が密集しており、何千羽もの鳥が巣を作っています。

 池とその周辺は、市の中心に位置するユニークな自然保留地で、私の亀岡でのお気に入りの場所です。私は毎日、朝食前、夕食前に大本の苑内を散歩しました。しばしば早足で、時にはジョギングもしましたが、池のところに来ると、必ず立ち止まったものです。池は1月になると氷で覆われますが、まもなく溶けて生命が再び誕生。水のなかには魚、主に鯉や様々な水生ほ乳類が現れました。鳥の鳴き声があたりに響き渡りました。亀の出現は完全な春の訪れです。亀は浮木を占拠し、うまく、親亀の甲羅によじのぼった子亀と共に日向ぼっこをします。私は亀山と言う名前が、抽象的なファンタジーではないことを証明するために、その爬虫類を撮影しました。その作業はかなり困難でした。と言うのも、子亀は、親亀も同じですが、私のカメラの為に演技してくれません。撮影術とは文字通り、動きを用いて表現されるのですが、亀はものぐさに、そしてほんの短い間だけ動きます。亀の動きを捉える為には、三脚の上にカメラを置き、スイッチを入れて静かに待つ必要があるのです。そのような方法で、私は3時間の映像を記録しました。最終的には、映画「2009年大本ー日本の春」の1分間のシークエンス(まとまりのある1連のシーン)に組み立てられました。

 池堀の内のり面の上に、亀岡大本本部が見られます。市の春日坂通りだけが本部につながります。春日坂通りは少し急な上り坂で、本部への2つの入り口が面しています。坂の上方は、人や車が入る一般的な入り口で、もう1つは霊的な特徴を持っています。その入り口には大本の紋章のついた白い旗があります、その紋章は1つの赤い丸のまわりに9つのより小さい赤丸がついたものです。10と言う数は完成の象徴です。光景として、その入り口には緑の道が開かれています。右手には梅の木が、左手には松の木が。やってくる人は道の入り口でお辞儀をし、その道は万祥殿(万の幸せの広間)という礼拝堂に続いています。朝晩の祈りは、ここ万祥殿で行なわれています。

 亀岡へ到着後、翌朝8時25分に万祥殿に来るように依頼されました。到着5分後、祈りが始まり、8時45分まで続きました。折りたたみ式の椅子を使うよう、小声で親切に勧められました。でも私は丁重にお断りしました。思い出したからです。大本の方が、私の客人としてクリスマスにワルシャワに来られた時の事を。客人は、私とクリスマスのミサを見学に教会に行きました。その時、彼は他の参拝者の所作を観察しながら、真似て、立ったり、座ったり、ひざまずいておられました。わたしも大本で真似て、同じ事をしたかったのですが、大本のお祈りでは、同じ姿勢で座ったまま、動きはないことが解りました。どのような姿勢で座るのかって? むこうずねと足の甲を下にして畳に座り、お尻に体重をかけるのです。そのような姿勢で、私は数分間耐える事に成功しました。その後、お尻をあげて(ひざまづいて)休息しました。その時、私の両サイドからささやく声が聞こえました。「ひざまづかなくてもいいですよ、どうぞお楽にしてください」
 万祥殿(万の幸せのホール)は美しい日本風の建物で、1958年、出口直日、3代教主の様々な機能を予見した設計で建設されました。現在、時に殿内は保育園の園児で満たされ、時に殿内に年金生活者が集まり、時には婚礼が行なわれます。威厳に満ちた婚礼は、1時間以上続き、色鮮やかな装束の新婦と、ネクタイの装飾を着けた新郎が、次々と続く場面で構成されています。斉藤保子の指揮による大本のコーラスが私を驚かせました。入殿する新郎新婦をメンデルスゾーンの結婚行進曲が、楽器の伴奏なしのオーケストラ用の楽譜で迎えます。また、出口紅5代教主が参加される多くの行事を私は見ました。たとえば、4月の田仕事が始まる時、教主は、象徴的な、もみまきを用いる特別な祭典で、その始まりを示しています。


 大本信徒は毎日お祈りします、2度も。でも祭典としては月に1度行われます。月次祭と名付けられ、常に日曜日で、大本の全ての地方支部で全く同じ日に行なわれるわけではありません。だから、もし望めば、月に何度も、違った場所で月次祭に参拝する事もできます。亀岡での月次祭は第一日曜日に行なわれ、祭典後しばしば、能芸術の部分的紹介が続きます。ご神前に向って座っている人達は、右に姿勢を変えるだけで、背景に力強い緑松が描かれている舞台を鑑賞することができます。万祥殿の形が、たまたまそのようになっているのではありません。これは、大本で培われ、出口王仁三郎によって提唱された教義である、「芸術は宗教の母」からきています。


 能は、1000年前に中国からやって来た事を思い出しましょう。そして日本で、史実に基づいて、語り、音楽、コーラスによる謡、そして踊り等からなる劇に形作られました。1603年徳川将軍は、政権の中で能を公的な芸術として発表しました。現在200以上の演目があり、ほとんどが、ほぼ2時間かかります。毎年、5月に大本みろく能が開かれます。ある年は亀岡の万祥殿、ある年は綾部の長生殿で、交互に開催されます。これには、能のプロ一座(職分)も出演します。開祖なおの影響を受けた出口直日3代教主の提唱で始まりました。月次祭においても、しばしば仕舞が舞われます。それは、西洋の概念における踊りとは違っています。宗教と芸術の一体化は、茶の湯サロン、殿内の北側にある茶室において確信することができます。清らかで、静かな精神状態の喜びを培うために、お茶を頂く事はすべての月次祭後の行事から外す事ができないものです。それに加えて、茶の湯は月に3度、なお、王仁三郎、すみこの名誉をたたえて、実践されています。

 茶道はまた、春陽閣(春の光の場所)でも行われます。春陽閣を通り過ぎると、亀山植物園に入ります。1951年、出口直日3代教主によって開園されました。初代園長は植物学者の竹内敬でした。万葉植物園として有名になり始めました。最も古い日本の和歌集である、万葉集で言及されている植物がここにあるからです。植物園には、全体でおよそ1000種類の植物が育っています。そのうち95パーセントは日本の在来植物です。奇麗に手入れされた植物園を散歩することは大きな喜びです。園内の曲がりくねった花小道とアーチ橋(そり橋)に沿って堀の水位まで降りていけば、市の中心へのパノラマが広がっています。特に、桜が咲く時はとりわけ美しいです。sakuro という言葉はエスペラントに導入されています。PIV(Plena Ilustrita Vortaro) では、その学術ラテン名は prunus と言う単語で始まっています。その一方、何百万もの非エスペラントチストは、日本のサクランボの木と間違って呼び、日本をサクランボが咲く国と間違って考えているのです。

 1953年出口直日は、桜の新しい亜種を発見しました。それは木の花桜として知られるようになりました。その花は多くの花弁が特徴で、1つのつぼみから50もの花弁が開くこともあります。亀岡の大本本部にはこの種の桜が2本あります。私は3本目をじっくり観察する機会がありました。それは5代教主の個人的お住まい所にあります。そこへ、大本教学研鑚所室長の斉藤泰が、私と妻のエリカを案内してくれました。教主はご不在でしたが。驚いた事に女性が、個人的に私たちを歓迎してくれ、木の花桜の花弁が浮かんだお茶をごちそうしてくれました。その後、教主は亀岡本部にある朝暘館(朝の光の家)と呼ばれる公邸に私たちを迎えてくださいました。


 この建物は、独特の庭に囲まれて、ご神前、お茶室、客間があります。近くには宣霊社があります。これは宣伝使のお宮で、大きな功績を残された宣伝使を慰霊するところです。天恩郷のこの辺りは、決して閉まらない公共公園のように思われます。大本の敷地全体において、施錠できる入り口がないからです。近くにはいくつかの学校もあります。若者は大本の緑のオアシスを訪問する事がお気に入りのようです。私も並木公園を利用しました。そこから、互いに重なり合うように密集した日本風の家が連なるキュートな通りにつながっています。

 それらの家は、車社会以前に建てられたものもあり、ガレージがついていません。そういったところに住む人が、最小のスペースに軽自動車を駐車させる技術には驚嘆します。私はまた、割合小さなガレージ付きの、小さな家を見つけました。一方、車は増え、現在その増えた車の2分の1あるいは3分の1しかガレージに入っていません。ガレージから突き出た車の後部が、日本の自動車産業の発展を如実に証明しています。規則的な私の散歩で、同じ時間にそこを通る人と知り合いになります。知り合いになると言っても、会話をするわけではなく、ほんの一瞬の繰り返しで、お互いに会釈する程度です。ほぼ同じ時間、同じ場所で、1人のお母さんが私の前を通ります。彼女は自転車に2人の子供を乗せています。1人は前に、もう1人は後ろの座席に座らせています。簡単に頭を下げることで、我々はお互いになんとかうまく挨拶出来ていました。最終的に、我々は大本保育園で再会します。天恩郷の並木道で、ボーナン ターゴンと静かに挨拶を交わす事ができます。その会話は2語で終わらない事がよくあります。実に、あの人、この人、エスペラントを話す人がいるのです。私は大本信徒の語学力を褒めたい時があります。彼女はコメントしました「本当にエスペラントは神の言葉です」 それとは別に、会話があろうとなかろうと、私には、人に対する人(人間関係)があるから人であると思われるのです。

 天恩郷の中に大本の公的な学校(塾)があります。それは、2年間のコースで、とりわけ日本伝統芸術について学びます。エスペランチストでその塾を卒業した者もいます。加えて、全修学年を通して、ご神書の音読(拝読)、大本の歴史、大本教義、茶道、様々な芸術、エスペラントなどを学びます。天恩郷が生き生きとした本部であるのは、塾生のお陰でもあると示されています。塾生には食堂で、毎日7時、12時、18時に出会います。大本食堂のメニューは質素ですが、宗教的制限はありません。一般的に日本がそうであるように、肉はそんなに食べず、魚、シーフードが豊富で、用意された大豆がさまざまに調理され、常に醤油で味付けされています。その味は、ヨーロッパ人にとってすぐになじむ事が出来ないケースもあります。食堂のすべてのテーブルには2代教主のお歌が置かれております。

    天の恩 
   土の恵みに 
   生まれたる  
   菜の葉1枚 
   無駄に捨てまじ

 食堂には従業員、奉仕者と呼ばれている人が集まります。彼らは、大本本部の様々な場所で働いています。全体で150名になります。私がそこで勤務していた頃、主なる事務所は、1962年に建てられた大本会館と呼ばれる建物の中にありました。私は安生館(静かな生活の家)に住まいしていました。私の静かな生活は突然壊されましたが、残念がる事ではありませんでした。私は第3安生館に移りました。それは5階建ての宿舎で、近代的な設備が整っていましたが、内部は日本風にアレンジされていました。なぜ私は全く居心地のよい建物から撤退しなければならなかったのでしょうか?立て替えの決断が実行されたのです。まもなく巨大な怪物が打ち寄せました。鋼鉄の口で1枚1枚壁をくわえ、立方体の家をがれきのピラミッドに変形させました。


 私は、何時間もカメラを構え、恐るべき光景を記録しました。そして、立て替えの象徴、つまり悪の世の立て替えとしてそれを使いたかったのです。しかし、私はその人工的な考えを取り下げました。と言うのも、筆先のなかにつぎのような言明があったからでした。すべての神の使いは、皆、世界の立て替え、立て直しがあることは知っています。しかし、それがどのように行なわれるかは彼らも知らないのです。実際、私の住まいの破壊と別の2つの建物の破壊は、技術者による仕事で、空きスペースを再び手に入れ、新しい大本本部を建設する目的なのです。2009年5月4日、私は建設開始を祝う厳粛な式典に出席しました。出口紅5代教主が独自の方法で鍬を用い、その開始を象徴的に行いました。

(続く)その10