rakontoj el oomoto8 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第8章
BROKATO KUN DESEGNO
錦のみ旗


 奥脇俊臣さん、上田喜三郎は1週間、高熊山の洞窟で修行したのですね。皆は彼に何がおこったのか、知っていたのですか?

 誰も知りませんでしたし、捜しましたが無駄でした。明治31年旧暦2月15日、喜三郎は、突然、家に戻ってきました。それは、1898年3月7日のことでした。家族や親類は質問しました。「どこにいたの?」喜三郎は静かに答えました。神様の導きによってしばらくの間修行に行ってきたと。茶碗一杯の麦飯を食べた後、深く眠りました。翌日、喜三郎は元気に目覚め、好みの社を参拝しました。もう一晩、過ぎました。目は覚めたのですが、体が動かず、目も開きません。大丈夫かとの問いかけは理解できましたが、口は返答を拒否して動きません。医者は次々とやってきましたが、無駄でした。祖母のうの、母のよねは拍子木と数珠を持った祈祷師を引っ張ってきました。誰もうまく行きませんでした。ついに、唐辛子を燃やし、その煙をあおいで、喜三郎の鼻の穴に送ろうとしました。その時、よねが止めました。彼女は泣き始め、その涙は息子の顔の上に水滴として流れました。

 そのような状態はどのくらい続いたのですか?

 まるまる1週間です。前述の修行と同じです。後に彼が書いているのですが、母親の目から落ちた涙は喜三郎の顔を濡らし、上方から一条の黄金色の網が落ちてきました。それを彼がかろうじて手で握るや否や、驚く事に、彼の体は自由に思い通り動きました。上田喜三郎は己の世界救済の使命を意識し始めました。その実現のために、彼は様々な神の教えや霊的能力を受け取りました。


 どのように、上田喜三郎は自己の世界救済の使命を実践していきましたか?

 すでに、語ったように、彼の人生経験と、あまりにも早い父親の死で、喜三郎はしばらくの間、宗教に幻滅していました。高熊山の後、喜三郎は1899年、出口なお大本開祖が喜三郎を導いた、「神の道しるべ」に立っていました。それは、開祖の帰神から7年。喜三郎の高熊山での修行から1年後でした。そうこうするうちに、喜三郎はあざけりの対象になり、労働義務の怠慢として、家族の叱責に直面していました。喜三郎は、当時、亀岡地方に数多く集まっていた新旧、大小の様々な宗教との接触を試行錯誤しながら、模索しました。ついに、喜三郎は自身の礼拝所を開設しようと決心します。彼の賢明な友人である斎藤仲一は、そのような考えを持たないよう助言しました。彼曰く、もし宗派を開きたいなら、先ず以て病気直しから始めなければならないと。喜三郎は、多くのいかさま師と一緒にされるのは嫌だったので、その助言を断ります。しかし、斎藤は、1人の女性を無理矢理喜三郎のところに連れてきます。彼女は2年前から痛みに苦しんでいました。喜三郎は、否応なしに、彼女を任されます。喜三郎は自分の心を清め、熱心に祈ると彼女の痛みは消えてしまいました。すぐに、穴太の生き神さまの名声はあたりに広がりました。そして、多くの病人が亀岡近くの村にやってきました。

 なおの時のように、警察は介入しなかったのですか?

 すぐに、警察官がやって来て、いかなる方法でも人を集めることはダメだと警告しました。同時に、稲荷講社は、喜三郎が自分達のメンバーになるよう、勧めます。その宗派の長は、霊学の権威、長沢雄楯でした。喜三郎は入会を躊躇しました。稲荷は一般に嫌悪を呼び起こしたからです。それでも、喜三郎は京都に行き、生まれて初めて列車に乗り、静岡県に行きました。長沢は丁重に客をもてなし、喜三郎を大いに感化させました。3日後、喜三郎は去ります。まもなく、亀岡と綾部の中間地である園部に霊学会を開設しました。ある時、喜三郎は自分の村の穴太から園部に向かいました。途中、お茶を飲むために八木で休憩しました。その店の女主人は、客が霊的な事に従事していると知って、喜三郎に言いました。自分の母親が神懸かりになり、その状態がすでに6年間続いていると。女主人は喜三郎に母親を訪ねて、どのような神が母親に憑いているのか審神して欲しいと頼みました。茶店の女主人は、墨の筆で書かれた紙を見せました。喜三郎は文を読み、その内容が自分の高熊山での修行を連想させるものである事に気づきました。喜三郎は興味を持ち始め、神懸かりの女性を訪問する約束をしました。

 なおとなおの筆先のことだろうと推測するのは、難しくないですが、茶店の主人とは誰ですか?

 彼女は、出口なおの三女、ひさ。1899年、明治32年2月、上田喜三郎は出口なおに手紙を書きました。その中で、喜三郎は、神の国を建設する時期が近づいており、二人で共に力を合わせて、その神業を果たさなければならないと主張しています。その手紙の返答として、四方平蔵は、なおの特使として園部に来て、喜三郎を綾部に案内する役を与えられていました。綾部に向う前に、喜三郎はもう一度穴太村に戻り、母、祖母に別れを告げ、加えて小幡神社にも参拝しています。その時、綾部に行けば、10年間は多くの苦労を体験するであろうとの声が聞こえてきました。綾部へかなり近づいた道中、四方平蔵はまもなく、通り過ぎる自分の家について話をしました。喜三郎はその家の様子について、あるいは家の周りに何があるかを詳細に語りました。その完璧な霊感は家の所有者を強く驚かせました。1899年、明治32年7月3日、午後3時頃、上田喜三郎は出口なおの前に立っていました。なお62歳、喜三郎27歳でした。その日は喜三郎の大本入りの日とされました。

 その新しい大本信徒には特別な仕事が与えられましたか?

 すべての事は、神によって準備されていました。その事は、日付のない次の筆先によって確証が与えられます。恐らく、喜三郎が綾部にやって来る前に出された筆先だと思われます。
 なおの心は苦しみで一杯です。というのも、大神業を理解する人はおらず、仕事を委ねる人もいないからです。しかし、世界の夜明けが来る時、すべての人は、上田喜三郎やなおの努力によって、勇んで暮らす事ができるようになるでしょう。1899年、6月の新しい啓示には、深い動機によって、上田喜三郎に極めて困難な仕事が与えられるだろう。そして、それによって彼を最高責任者に就かせよう。この人物がなおの助けとなる人なのです。この人物のお陰で、なおは、もう安心です。1ヵ月後、喜三郎は綾部に現れました。

 その地で彼はどのような境遇に直面しましたか?
 出口なおは、綾部の町の一角である裏町の倉に自分のグループを集め、実際には金光教から距離を置いていましたが、正式には金光教に依存していました。そうすることによって、なおの公的庇護が保証されたからでした。その関係が、綾部本宮にある礼拝所を自由に使える安足正信布教師との、継続した争いの背景にありました。上田喜三郎は、綾部にやって来て金明会を設立。この名前は金の光の会と翻訳出来ます。喜三郎は会長に選ばれ、なおが名誉指導者のタイトルを受けました。会長は、これ以上安足正信ともめごとをおこなさないように、他の役員を説得し、安足を副会長に選出しました。安足は喜んでその提案を受け入れ、会に入りました。というのも彼は、なおなしでは、綾部で金光教が繁栄するチャンスはないことを認識していたからでした。

 開祖は稲荷講社を認めていなかったと言われてますが、どのように喜三郎はこのジレンマを解決したのでしたか?

 その問題を解決したのは、喜三郎ではありませんでした。なおは、稲荷講社との関係は気にしなくてもよいという啓示を受け取りました。霊学会と金明会は統一され、金明霊学会となりました。それは大本公認化への重要な歩みでした。大本は、稲荷講社本部の支部として、綾部で、なおの指導のもと、艮の金神グループに公的看板が与えられました。なおの信者はそれぞれの家で、そして後に、本宮礼拝所を持ちました。急速に信者の数が増え、信者は合法的に集まる事ができました。その突然の発展は上田喜三郎の大きな貢献によると考えます。

 上田喜三郎はいつ、出口王仁三郎になったのですか?

 1900年1月1日、なおの末娘である出口すみことの結婚の後です。花嫁16歳、花婿28歳でした。婚礼直後、なおの義理の息子で悪党の大槻鹿蔵によってトラブルが発生しました。鹿蔵は、なおに多くの苦悩を与えてきました。とりわけ、なおの自宅を売り払ったことでした。今回は、抜き身の剣を振りかざし、新しい義理の弟を襲い、綾部から即座に出て行くよう、神を冒涜しながら命令しました。王仁三郎は、固い信念と威厳を持って対処する用意を示したので、侵略者は突然、へりくだって立ち止まり、帰って行きました。婚礼前すでに、すみこにはなおの跡継ぎの役割が運命づけられていました。すみこは1902年、直日と名付けられる女の子を生みます。出口王仁三郎の名前を受け入れたことで、直日が、正式に自分の娘として確定することになりました。

 未来の大本教主はどのようになっていますか?

 私はそれについて確信を持って断言できる能力はありませんが、事実として1910年、筆先に書かれています。
出口なおの後は、なおの末娘、すみが、2代教主の働きを遂行し、3代はすみの長女の直日が受け継ぐと。それは神の決定です。次に、筆先は総体的な教義の原則を整えました。綾部の大本のお世継ぎは、代々、肉体は女性であると。実際、その年以来、出口王仁三郎の名前が公式に使われました。


 出口王仁三郎の急激な進展は、開祖に忠実に仕えた開教当時の熱心な信徒のグループに対立を引き起こさなかったのですか?

 会長と、開祖に無条件に従い、開祖を手本にしてきた開教以来の熱心な伝道者との間に不協和音が起こりました。その不協和音は、主になおの手を用いて書かれた啓示に対する、異なった解釈が源であります。なおの信徒は、多くの啓示を知っている訳でなく、しばしば一部分を、文字通り取り出して実行に移しました。神に仕える身として、開祖は布団も敷かず、氷点下でも火鉢も使いませんでした。天候に関わらず、頭から冷たい水をかぶる、水行の潔斎をやめませんでした。水を用いた自己潔斎を、開祖は1日に何度も、昼夜の区別なく行ないました。そして、その厳しい修行は1日の休息もなく20年間続きました。開祖の晩年、神が禁じるまで。開祖の信徒は、悔い改めを確信する中で、開祖を厳密に手本としました。悔恨は心の潔斎の問題であり、肉体を清潔にするには温かい風呂がより適していると、会長が説教しています。会長はこれに関する啓示を引き合いに出す事ができました。人の外面は洗えば直に清潔になりますが、しかし人の心の洗濯は困難です。同様に、食事や衣服に関しても正統派の振る舞いを実践していました。

 私は読んだ事がありますが、上田喜三郎が最初に開祖を訪問した時、お歯黒で、こっけいな服装をしていたようですね。 

 また後には、特に宣教中、彼は洋服を着て、それはなおの信徒には好ましい事ではなかったのです。自由な振る舞いは、神への奉仕者としてふさわしくないと批判されました。筆先のなかに、西洋衣装を身につけ、靴を履いたり、帽子をかぶり、肉を食べないようにという内容があります。筆先に「世界は暗闇」とあれば、日中、火を灯した提灯を持って外に出て行った者もいました。当時の役員は、科学や外国文化に否定的でした。


 まさに、明治維新の主なるジレンマの事象です。すなわち、国の近代化の必要性と国の伝統的価値の維持の必要性との対立です。

 出口王仁三郎は進歩の必要性を理解していました。それは後に専門用語として、進展主義となり、大本4大主義の1つになりました。彼の目的は、近代化しつつある社会へ、論理的に納得のいく教義を提案することであり、筆先の中に勇気づけるひらめきを見いだしました。1900年の啓示には、現在の役員のほとんどすべては、神のお世話をするためではなく、自分の目的を実現するために来ているのだ。そのような気持ちでは、何も達成する事はできない。その同じ年に書かれた筆先に、名指しされた人物は出口王仁三郎自身であると考えられます。大本は、神の世の扉を2度目に開くため、実際に役立つ人間だけを集めることを目的にしています。王仁三郎は、出口なおによって自動書記で記録された啓示の多くに精通した、最初のオーモターノでした。お筆先の数はすでに、半紙何千枚にものぼっていました。その多くは、全体として理解するのは困難で、しばしば異なった意味を示していました。それは筆先がひらがな、つまり丸いかなのみを用いていた事実が原因でした。会長は、より解りやすい意味を与えるため、紛らわしい表現には漢字を用いました。

 そして、それは反対を引き起こしませんでしたか?

 実際、それ以上の謀反、反乱が起こりました。中国はすでに敗れていましたが、明治政府は反中国プロパガンダを支持し、まさに勃発寸前の日露戦争が、民族主義と、外国のすべてのものに敵意と軽蔑を示す狂信的排外主義(ショービニズム)の波に影響を与えたのでした。民族主義的大本信徒は、そのような立脚点の基礎を次のスローガンに見いだしました。筆先からの抜粋ですが、外国の悪神達は、次のようになっています。外国の神々のなかには、良い神もあり悪い神もいます。王仁三郎への反抗は、ある時は危険な様相を帯びていました。武器を持った反抗者のグループは、宣教から帰る王仁三郎を待ち伏せしたこともあります。今回も、王仁三郎の堅固で威厳を持った対応に、侵害者は圧倒されました。王仁三郎は反対者を命令で前に出し、なおのところへ連れていきました。なおはその一団を厳しく叱りつけました。王仁三郎は、それ以上彼らを責めないよう頼んだほどでした。王仁三郎はよくわかっていたのです、開教当時の大本信徒に必要なのは処罰することではなく、啓発(さとり)が必要な事を。啓発によって、彼らが啓示の表面的視点から自由になり、啓示の豊富な霊的内容を認知できるようになるであろうと。そのために、王仁三郎は心血を注いで教義の本を著しました。


 その本は信徒に読まれましたか?

 全く反対で、会長が不在の時、役員達はこっそりと外国の汚れた漢字を用いた王仁三郎の著作を盗み、焚書(燃やしてしまう)しました。そうする事によって我々は立て替えの御用を行なったとして受け入れられた、だから、実際それは良い事なのだ。このようにして、本を燃やした人は、自分達の行動を無実化しました。王仁三郎が内部の事にもがいている間、外部では丹波から出た神として彼の名声は伸びていました。とりわけ、キリスト教のいくつかの重要な教会が王仁三郎をリクルートしようとしました。王仁三郎はあちこちの敷居をまたぎました、それはそれぞれの運営の仕方を学ぶ目的でした。1906年、明治39年、王仁三郎は神道の機関である皇典講究所で6ヵ月の研修を開始し、神職になるための試験に合格し、建勲神社で有給の主典に公的に任命されました。後に王仁三郎は御嶽教のために働きました。続いて、大成教にも精通するようになります。最も重要な仕事が、大本を公的な存在として確かなものにする方法を見つけることだと示されました。一方稲荷講社とは、もはや支持される接点はありませんでした。稲荷講社は筆先による賛同(承認)を失っていました。1908年、金明霊学会は大日本修斎会に改名されました。その年の暮れ、王仁三郎が綾部に戻ると、大本が顕著なまでに空っぽであることに気づきました。その事はすでに以前、筆先が予言していました。


 大本は恐らく2人の教祖を持つ唯一の宗教運動であると思いますが、筆先には2人のそれぞれの役割が定義されているのですか?

 1900年、12月の啓示にはこの定義が含まれています。出口なおの役割は、未来の事を世界の人達に知らせる事で、会長の役割はそれを説明し、人々を改心させることであると。この啓示は広範な教義の源である、その教義は縦糸の垂直機能と緯糸の水平機能との比較を用いて、端的に説明する事ができます。そこで、垂直基礎糸の縦糸の働きは、出口なおの教義であるとします。我々はそれを将来の神の経綸として理解します。一方緯糸の教義、つまり水平の働きは王仁三郎のものとします。その働きを我々は地上の救済と理解します。大本は自分達の2人の教祖をご神書の著者として認めています。その調和した共同作業によって、お2人は神の経綸に従って、我々がまだ到達していない、地上の神の国、日本語で「みろくの世」が描かれている美しい錦のみ旗を織るのです。



 出口王仁三郎が戻ってから綾部はどうなりましたか?

 会長は、新しい体験と方法によって、意欲的に活動を開始しました。大本はエネルギッシュに展開しました。京都〜綾部間の国鉄の建設がその活動を加速させました。綾部へ容易にアクセスできることが、信者数の急速な伸びに寄与しました。1909年、信徒の協力のもと、大本最初の神殿が建設されました。1912年、明治時代が終わり、新しい嘉仁天皇による大正時代が始まりました。やがて、第一次世界大戦が勃発。日本は同盟国に参加しアジアでの拡張を、特にドイツの代償によって続けました。その間に、綾部の大本の神苑は大きく広がりました。毎日のようにハンマーで打つ音が聞こえました。新しい建物が増えました。聖師は神苑の整備に細心の注意を払いました。布教はその目的のため、最先端の方法を応用しました。とりわけ活版印刷の雑誌です。両教祖は調和を持って協力し合いました。出口なおは、静かで、謙虚な女性のまま、81歳を迎えました。大正7年11月6日開祖は昇天しました。それは1918年、第一次世界大戦終了の年でした。


(続く)その9