rakontoj el oomoto6 of EPA


Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第6章
VORTO KAJ FAKTO
言葉と現実

 奥脇さん、最初に言葉、そしてその言葉が現実になりますね。大本が1892年、啓示を得て誕生した時、運動としても存在し始めたのですか? 
 出口なおが最初の啓示を受け取ってまもなく、帰神状態にあるなおの、尋常でない行動。なお自身が押さえる事が出来ず、祈祷師が対峙しても祓う事ができない。腹の底から聞こえてくる男の声、未亡人の非識字者によって書かれたひらがな。これらすべてが、綾部の隣人達の好奇心を刺激し、その周辺にさっと広がりました。ちなみに、多分皆さんのなかには、なおが未来を予言する驚くべき子供であった事を覚えている人もいると思います。帰神の時に、なおのそういった能力はより強められました。

 当時、なおは汚れ紙やぼろ切れを集めていました。なおは各家を訪ねていました、時に自宅から遠く離れた場所に。多くの人が彼女を知るようになったのですね?
 神道の伝統にそって、日本人は自宅に神棚を持つ習慣があります。人々は、なおが自身が自らの貧しい商いで他人の家を訪問すると、まず家の神棚に向かい、その神棚を掃除して帰ることに驚きました。なおの熱心な信仰をみて、病人達が勇気を出して助けを求めました。なおは、病人に自分達で綾部の方角を向いてお祈りするように促し、その病が回復する事もありました。なおは、当時、およそけた外れの行動によって、人々を不思議がらせました。たとえば、壊れた時計を動かしたり、的確に危険な気象変化を警告したりしました。とりわけ、1894年、明治27年、日本と中国の間に戦争が勃発した時、なおは有名になりました。受けた啓示により、その衝突を1年前に予言していました。

 「預言者故郷に容れられず」ですが、開祖は綾部や綾部近郊で信奉者を見つける事ができましたか?
 すでに話したように、明治維新、武力によって実現された日本の近代化は、社会的混乱を引き起こし、必要な政治経済的変化と、いにしえの神聖な伝統価値との共存の、差し迫った要求が生じていました。まさに、そのジレンマから新しい宗教が生まれたのかもしれません。岡山で生まれた金光教は、大本の誕生よりずっと以前に丹波地方に現れました。金光教は、特に、亀岡に数カ所の礼拝所を立ち上げました。

 出口なおは競争相手の宗教に対抗しましたか?
 まったくなかったです。なおは世界の立て替え、立て直しは神の計画であると固く信じていました。神は、その計画を髪の毛の横幅の違いもない完璧さで実現させると。なおは、実直な神の啓示の伝達者でした。金光教の布教師が、なおの並外れた特徴を見落とすことはありませんでした。なおは啓示を書き始めた後、1894年、山家村へぼろ切れを買いに出かけました。そこには西村と言う人の奥さんが、夫の事で嘆き悲しんでいました。夫は、うつ病で家に閉じこもっていました。なおはその病人の腹に右手を置き、神に祈りました。およそ10日後、なおが再びその家に行くと、夫妻から感謝を持って迎えられました。というのも、夫妻によると、奇跡的な回復があったとの事でした。夫妻は、なおに共に神様に感謝の祈りを捧げたいとお願いしました。まもなく、綾部に金光教の布教師が来て、6畳間の部屋を借りました。その場所は義理の息子、大槻鹿造が売り払うまで、なおが所有していた家の近くでした。1894年、11月11日、最初の会合に11人が集まり、金光大神と艮の金神を一緒に奉斎しました。加えて毎月3回は祭典を行なうように決定しました。

 そのいわば宗際(エキュメニカル)とも言える礼拝は、大本が金光教との融合運動として存在し始めた事を立証しているのですか?
 まもなく、金光教の布教師、奥村定次郎は、自分の宗教を広げる為に、なおによる神の言葉を巧妙に利用しました。信者が急速に増えたので、絶えず、より大きな会合所を賃貸する必要がありました。1895年、明治28年秋、以前他の宗教が使っていた神前を借りることになりました。なおは、そこに住み始め、料理、洗濯、掃除、そして参拝者のお世話等、日常の仕事を献身的に行ないました。数百人の参拝者は、しばしば疲労、空腹のまま、不潔な状態でやってきました。なおは彼らの服や脚絆(ゲートル)を洗い、乾かしました。なおがますます多くの人達を引きつけるようになってきた一方で、奥村はなおを使用人の召使いのように扱いました。

 そのような状態で出口なおは自身の啓示を広げる事ができましたか?
 まさに、それが問題でした。なおは、お筆先の内容を自分では理解出来ず、たとえ説明を求めても金光教の布教師はお筆先には関心がありませんでした。彼らは、自分の宗教にやってくる人間を勧誘するだけでした。なおは綾部を離れる決心をし、八木の娘のところに行き、そこで、絹糸紡ぎに従事します。そこでは、別の新興宗教、天理教が彼女を勧誘します。しかし、彼女は入信を拒否します。このころになって、なおは自分に懸かる神が、強い力を持ったりっぱな神であることに確信を持ち始めます。新興宗教の人達は、その現実を説明できず、理解したいとも思いませんでした。その間、日本は中国に勝利し、なおは、日本が征服した台湾で最愛の息子の清吉が戦死したとの、胸が痛む知らせを受け取りました。日清戦争がまもなく終わろうとしていた頃、なおは、日本とロシアの間のやがてくる戦火について新しい啓示を受けました。

 出口なおはきっぱりと金光教との関係を断ちましたか?
 なおが綾部の神前から去った後、人は集まらなくなり、布教師もどこかに消えてしまいました。なおが戻ると、まもなく真の神を拝む気持ちのある、忠実な信奉者は、なおを取り囲みました。臨時の礼拝所に集まりました。まもなく、困った事が持ち上がります。警察が介入し、金光教の布教師がいなければ人を集めて会合を持つ事が禁止されました。毎回の会合に、そのつど別の許可が要求されました。なおのグループは一度もその許可を取る事ができませんでした。一方で、他の新興宗教の会員は自由に集まる権利を有していました。綾部では、金光教に加えて天理教、黒住教、そしてキリスト教もまた活発に活動していました。出口なおが、最初の帰神を受ける少し前に、これらの宗教は認可を受けていました。ライバルをふるい落とそうと、疑いもなく、これらの宗教から警察へ干渉があったのかもしれません。しかし、すでに当時の政府は、新しく立ち上がった宗教に対して警察はさらなる認可を与えないと、決定されていたようです。

 なぜ政府が宗教間のライバル関係に介入したのですが?
 宗教が、大日本帝国憲法を基礎においた明治時代の重要な政治的要素であったからです。その基礎となる法律は1889年に公布され、信教の自由を宣言しました。しかし、その自由は国家の管理の下に置かれていました。

 どのようにして?
 結果として神道は政府によって、宗教としてではなく、天皇家と結びついた国家の祭典、祭祀として認定されました。祭祀の中心として、天皇家が国家の精神的だけではなく政治的、教育的な基礎でなければならないと言う必要条件を満たさねばならなかったのです。それは「国家神道」と呼ばれ、すべての宗教より上に位置していました。

 その事は他宗の信徒にとって信仰の自由を制限する事につながらなかったのですか?
 他宗による信教の自由は、引き続き形式上は有効でした。しかし、重要な条件の下ででした。憲法28条は社会の安寧と秩序、そして被支配者が義務を守る事を要求していました。宗教に対する組織的管理は次のように行なわれていました。「公認教」になるためには正式な認可を受けなければならない。宗教活動に対する政府の干渉によってたびたび妨害されたくなければ。なおが金光教との協力を得る事は、自分の活動の為には重要なことでした。それは、金光教は「公認教」になっていたからです。

 なおが金光教を必要とする以上に、金光教がなおを必要としたように私にはみえるのですが?
 なおが綾部に戻り、警察がなおの活動にブレーキをかけた時、まもなく金光教の新しい布教師、足立正信が現れます。そして、再びなおと良い関係を結びます。礼拝所は再び機能しました。警察は干渉しません。しかし、その状態は長く続きませんでした。1897年、明治30年、その新しい布教師は、十分に信者を再獲得し、再びなおを重要でない召使いの役割へ押しやりました。なおがへりくだって布教師の振る舞いを受け入れると、布教師の態度はますます傲慢になってきました。なおはへりくだることをやめて、突然に裏町へ立ち去りました。そこで、なおは簡素な倉に住み始めました。しかし、その倉は大本にとって象徴的なものになりました。というのも、出口なおは、その倉の中に祭壇を用意し、木製の神床を置き正式にお祈りし始めたからです。

 このように言葉が現実になったのですね?
 はい、それは大本における最初の祈りの場になりました。開祖に忠実な信者が集まりました。信者は会合を持ちましたが、警察は厳しく介入しました。正式な認可がなかったので、規則違反の会合を口実に弾圧者は信者を標的にしました。そのような困難な状況で、なおと信者達はある人の出現を渇望していました。ある人とは、金光教との結び付きがなくても組織を束ねる事が出来る人で、真の神のために、真の力を持つであろう人。出口なおは、すでにずっと以前に記していました。神の仕組みを説明出来る人は東から出てくる。

 誰ですか?
 当時、彼はまだ上田喜三郎と呼ばれていました。しかし、実際は大本教祖になって出口王仁三郎と名乗りました。
 まずは、上田喜三郎について話をしましょう。
 彼は1871年、明治4年、現在亀岡市の地域である穴太村の貧しい農家でこの世に現れました。明治初年、当時は激しい混乱が渦巻いていました。喜三郎が生まれて数ヵ月後、喜三郎の祖父は自分の命が絶える前に、喜三郎の両親である吉松、よねを呼び、第一子の喜三郎を大切に育てるよう諭しました。喜三郎は、必ず将来名前が世に知られる事になるからと話しました。ところで、農家である上田家は華麗な家系を持っていました。有名な画家である円山応挙もその一人でした。後には、祖先伝来の良田は他人の手に移っていました。そして喜三郎が生まれた頃は藁の屋根のあばら屋生活でした。しかし、喜三郎は教養に富んだ祖母のうのから大きな影響を受けました。祖母から喜三郎は文字の読み書きを学びました。その祖母も、喜三郎の果てしない記憶力に唖然としたことでしょう。喜三郎は祖母が教えた事をすべてを即座に覚えてしまいました。ある人が新しい井戸を必要とし、喜三郎に助けを求めました。喜三郎は色々な場所で耳を地面につけ、どこを掘れば間違いなく水脈に当たるかを指摘しました。八耳、地獄耳と人々は驚嘆していました。


 上田家の貧困が原因で喜三郎は学校には通えなかったのですか?

 貧困だけでなく、病弱の理由で喜三郎は3年遅れて学校に通い始めます。しかし、2年経つか経たないうちに、同級生を追い抜きます。12歳で、喜三郎は5年生になっていました。道徳の授業で教師、元侍であった吉田有年の間違いを勇気を出して指摘します。教師は怒りを爆発させ、その向こう見ずな生徒に厳しく対処します。後に、つまらぬ事に喜三郎を追い回し、手をあげました。さらに、その教師は喜三郎の困窮を卑しめたのでした。物乞いが通ると、教師はその物乞いを指差して、冷笑しました。「ほら、喜三郎様のお父様がおられる!」 級友が古ぼけたトイレを通りすぎると、その元侍はふざけて、「あれは華麗な上田様の宮殿だ!」



 大胆で勇気ある少年が我慢できたんですか?
 ある晩、喜三郎は学校から帰宅途中のその教師に陰謀を企てます。糞便に浸した竹を教師の腰に押し付け、すばやく逃げたのでした。スキャンダルになりました。詳細な調査後、その教師は解雇され、喜三郎は退学になりました。結果、教室には教師はいなくなりましたが、容易に補充できませんでした。しかし、運命は皮肉な解決でそのスキャンダルを閉じました。校長は学務委員(現在の教育委員会)と相談後、代用教員として上田喜三郎を雇う決定を下しました。退学となった生徒が再び自分の学校に教師として戻ってきたのでした。それは、先例のない事でした。わずか12歳の少年に関することだったからでした。

 多分、それは全く未曾有の事ではないのでは? イエスは12歳の時シナゴーグ(ユダヤ教会堂)で説教をしましたから。
 恐らく、その違いは喜三郎においては黒板に字を書くには腰掛け椅子を必要とした事です。生徒が同級生先生に質問をして、それに答えられない時、同級生先生は真剣に、「私は今日は答えられないので、それについては明日お教えします」と答えました。驚くべき少年教師喜三郎は、わずか1年しかその仕事を続けませんでした。お寺のお坊さんである同僚教師との口論が原因で学校を去り、大規模農家の書生の地位を得ました。まもなく、喜三郎は、貧しい父親が巻き込まれた池についてのいさかいで、父親を助けるためその仕事も辞めてしまいます。池は上田家の所有でしたが、近所の地主が自分達の水田のために池の使用を主張しました。村人の会合において、喜三郎はその正統性をうまく主張しました。その後、喜三郎は家族のわずかな水田で献身的に働きます。夜の籾すりに苦労した彼は、アイデア満載の籾すり機を発明します。加えて、喜三郎は山で薪を刈り、24キロ離れた京都へ運んで、販売しました。伝えられる話として、荷車を引きながら、喜三郎は手に持った本から目を離さなかったとの事でした。

 上田喜三郎は疑いなく有能な青年であったと思われますが、真剣に勉強する余裕はあったのですか?
 通常彼は深い研鑽と同時に、実践的に、自分の知識と技能の基礎を固める事に努力していました。彼は獣医学も勉強しました。次に乳製品の生産配達の専門家になりました。彼の精乳館のお陰で、その高価な栄養物の消費がその地域でかなり伸びました。年長の従兄弟のアドバイスにそって、喜三郎は農商務省主催の獣医試験にも晴れて京都で突破しました。その間、彼は警察官と牢獄の看守の試験にも合格しました。



 彼は牢獄の看守や警察官だった頃もありますか?
 その職に就く事はなかったですね。というのも、運命は彼に異なった方向を示したからです。喜三郎は、常に優れた人物の影響を模索していました。父の農地の労働で疲労困憊の後も、喜三郎は穴太の金剛寺で開かれていた夜学に頻繁に通いました。漢文、お経を学びました。そして、神道に関する日本の古典に深く入り込みました。園部に滞在中は、夜になると南陽寺に行く事を楽しみにしていました。園部には有名な文献学者(国学者)であった岡田惟平が住んでいたからです。その要人から喜三郎は古事記、日本書紀、そして歌垣の芸術を学びました。歌を用いた祈りの古代の祭の形です。喜三郎はいつか歌垣を復活させたいと心に誓いました。そして彼の夢は大本で実現しました。彼は熱心に歌を作り、およそ10数万の歌を残しました。その中にはエスペラントを内容にしたものもあります。

 上田喜三郎は大本をどのようにとらえたのでしたか?
 有り余る知識を頭脳に持つ26歳の青年、喜三郎は父親が亡くなった1897年からしばらく無神論に傾いていました。父親は、53年にも満たない人生を貧困の恥辱の中でもがきました。その息子は人間の悲哀の理由について考え、宗教組織の偽善を見るにつけ、それだけ多くの苦悩を感じました。彼は伝統的な英雄世界(当時の任侠道)に引き寄せられました。弱きを助け、強きをくじく世界でした。喜三郎は弱者を守ることに努め、争いに飛び込んでいきました。助けられた側は喜び、反対側からは恨みを買いました。ある晩喜三郎は演劇(浄瑠璃)のリハーサルに参加していました。そこに数人を引き連れた大きな力士が入って来て殴りかかりました。翌日、意識を取り戻した喜三郎の顔の前には、母親のよね、祖母のうのがいました。そのときすでに84歳の祖母は言いました。「多くの人からの怨恨を買いながら、1人を助ける為の英雄的救済(任侠道)など何も役立たない。お前はこの世に神はいないと言っている。昨夜の事は、神の慈悲なるお気付けだ。自分の気持ちを変えるようにしなさい。」その時喜三郎は変わったのでした。時に神の使いに導かれ、富士山に登ったように感じました。実際にはそれは高熊山でしたが。

(続く)その7