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Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 第5章

LUNLUMA KULTURO?
月の光の文化?

 日本語で出版された書籍「ザメンホフ通り」の表紙に、著者である私の名前を捜しても見つかりませんでした。最終的に、この本の67名の翻訳者の1人、大本信徒の硲大福が、教えてくれました。表紙には4つの文字表記形があります。共著者の名前、Louis Christophe の頭文字、LとCだけはローマ字の大文字で表記されています。しかし、彼の名字、ザレスキー・ザメンホフはカタカナで書かれています。P.I.V.(Plena Ilustrita Vortaro)によれば、かなは日本語表記の表音文字とあります。かなは日本語でカタカナと呼ばれ、しばしば、外国の名前を綴る時に使われます。たとえば、ザレスキー・ザメンホフのように。

 では、なぜL.C.の文字をローマ字で残すのでしょうか? かなは、シラブル(音節)を反映して表すと言う点で、ローマ字とは違っています。だから、カタカナは音節表(音節の結合)と呼ばれているのです。日本語表記では、母音だけが、独自のかなを持っていますが、子音は音節の一部で表現しています。だから、エスペラント博士の孫の名前の頭文字であるそれぞれの子音L.C.は、カタカナではなく、元々のローマ字表記で残されていました。「La Zamenhof-strato」 は「ザメンホフ通り」と翻訳されています。「ザメンホフ」と「通り」の2文字は異なる日本語表記です。ザメンホフはカタカナを用いて書かれていますが、「通り」には1文字の漢字と、もう1つの日本語文字形体のひらがなが使われています。まさに、このアルファベット、つまりこのひらがな文字を用いて、出口なお大本開祖が筆先という神書を自動書記で表しました。

 4種類もの文字体系があるのは、日本文化の多くがそうであるように、中国にその発生の源があります。漢字は、当初日本列島において、発音通りの印として使われていましたが、現実には不都合が生じてきました。つづいて、50音節からなる図解で、発音通りの文字体系であるカタカナが考えられました。すでに、お話したように、カタカナは直線的な、かなです。これもまた中国に由来しますが、書道芸術の必要条件を満たしていませんでした。結果として、見た目の良い、ひらがな、言い換えれば、丸いかなが形作られたのです。かなは、文法的機能の象徴として、しばしば使われています。たとえば、格を示すように。実際、カタカナ、ひらがなは中国文字の簡略されたものを表します。
 実務に堪能な日本人は、中国文字を完全に捨て去る事はしなかったのです。現実には、およそ2000もの中国文字が、日本語に使われています。文字の行列を用いて同じ思想を表すより、1つの絵(漢字)で表現した方が、都合のよい場合が多々あります。日本語の音節には多くの意味があります。たとえば、短母音の「イ」は図解では1つのカナで示しますが、31の意味を含んでいます。状況、目的にふさわしい意味を示す中国文字を使わなければならないのです。中国文字は漢字と呼ばれています。漢字は中国のシステムによって音読み、日本流の訓読みがあります。たとえば、よく見られる日本人の名前、まつもとがありますが、2つの漢字を用いて書かれます。まつは松で、もとは元、本。同じ意味で同じ漢字でも、中国流では、それぞれ、ショウ、ホンと読まれます。いつ、この音読みにするか、訓読みにするかを理解するには、日本人として生まれなければなりません。その創造的な変形で漢字をかなに変えたことに対して、日本人に速記と音声音節文字の発明者のタイトルが与えられるでしょう。たとえ、その主張が100パーセント正しくなかったとしても、カタカナ、ひらがなは、「改善して取り入れる」という、計り知れない日本人の能力の表れであり、日本の歴史全体を表しています。

 日本へ来る前、私は紐靴を買いました。日本の人に私の印象を悪くしないためでした。私は、日本人の白いシャツとネクタイにエレガントさを認めていました。日本では紐靴はあまり履かれていません。通常、この国では靴に重きが置かれていません。靴は屋外用とされ、屋内では上履きが支配しています。日本語で、「スリッパ」です。亀岡大本宣教本部の入り口で、「どうぞ靴をお脱ぎください」と日本語とエスペラントによる案内が来客を迎えます。4つの事務棟と宿舎があり、その宿舎に私は滞在しています。玄関を通過した後は、靴を履いたまま移動出来るスペースは狭いのです。間もなく、靴を脱いで歩ける床が広がっています。靴を手で持ち、傍の棚に置きます。そして、靴下のままで、別の棚に向かい、スリッパを取ります。そのスリッパは廊下のみの使用になっています。私はそのスリッパを自分の部屋の前で脱がなければなりません。部屋の中では、別のスリッパが部屋の入り口専用として私を待っていました。さらに、私は靴下で進まなければなりません。私のベッドは一段上にあり、ベッドに入る最終手順の前に、裸足でも動く事が出来るのです。

 亀岡大本本部のすべての建物は、内部の通路で結ばれています。その迷路の中でも、エスペラントによる標識のお陰で、迷う事はないのですが、加えて、それぞれの建物で使用されているスリッパの色で区別する事を、私は学びました。時に私は、自分の履物が他人とは違う色であることに気づく事がありました。その時、私は、恥ずかしさで、急いで走って戻るのでした。1つの建物から別の建物へ、スリッパを履き替え忘れた場所へ。5つの建物には、少なくても10の入り口があります。自分の靴をどこに脱いだかを覚えておく必要があります。外に出かけたい、でも出来ない。というのも、私の靴は、遠くの出口にあるか、あるいは、どこで最後に靴を脱いだか全く覚えていないからです。最後には問題は解決されましたが、込み入っています、すなわち、私は3足の靴を買い、それぞれを、迷宮の出口に待機させておきました。ポーランドから持ってきた紐靴は、私が日本を去るまで、失業状態のままでした。

 しばらくすると、連続して、靴を履いたり、脱いだりすることが、面倒でなくなりました。その場合、私は常に靴を履いたままでいるより、頻繁に履物を替えた方が良いとさえ思い始めました。スリッパ文化の実践的体験により、スリッパの歴史を調べてみたいという衝動にかられました。ちょうどその時、私は、最初からエスペラントで書かれた、日本文化についての内容豊富な小百科事典を見つけました。残念ながら、その中には、スリッパと言う専門用語はありませんでした。著者は、足袋、下駄等その他の日本の履物について、詳しく表現していましたが。ちなみに、その著者は有名なエスペランチスト、中村田鶴雄です。スリッパは古い日本の伝統とは全く関係なく、現代の物として紹介されています。その事を詳しく説明してくれたのが大本信徒の矢野裕巳で、彼はエスペラントと英語を流暢に話します。

 彼の、スリッパと言う単語についての分析は以下のようです。母音の u は短く、ほとんど聞こえません。一方、子音の r は l に似て発音され、結果としてsurippa は日本人の発音では、slipa のように聞こえます。現在では、スリッパは英語のslipper に由来していると推測されています。これでいいでしょうか?その名前が示すごとく、スリッパは比較的新規な西洋文化の輸入品です。しかし、日本人の創造性によって、スリッパは、衛生という独自のシステムに同化させられました。同時に、スリッパは典型的な日本の興味深い現象例で、結論として、日本列島の進化を表しています。この事実を私に意識させてくれたのは、大本信徒の思想家によるエスペラントの随筆でした。

 日本国民は、強い同化能力を有していると言われています。その為でしょうか? 日本人自身が自らをあざけり、猿真似民族と名付けています。そして、日本文化は月光である、つまり、西洋と言う太陽、その光を反射して輝いていると、外国人は中傷します。自身は光を持っていないのです。おそらく、日本のように、大きなスケールで、西洋文化と東洋文化を吸い込んでいる国は他に存在しないはずです。

 ジュリアス・シーザーは「来た」「見た」「勝った」と言いました。人は、この有名な言葉を日本に関して、ジョークを交え、次のようにエス訳します。「来た」「見た」「改善した」。すでに記述した、エス語小百科事典で見つけたいくつかの事実が、私に、そのような結論を暗示します。お茶を飲む習慣を、日本人は、千年前に中国から学びました。しかし、少しずつ、その習慣は変化して茶の湯となりました。それは、お茶を準備し、お茶を飲む礼儀作法です。茶道はユニークな日本文化の現象となりました。能芸術もまた、中国文化からの類似した脚本の例です。日本人は創造性を駆使し、謡、舞、そして演奏からなる独自の象徴的な劇へと形を変えていきます。200以上の演目があります。私が思うに、大本では特に「羽衣」が好まれています。plumroboー羽毛+丈長のゆったりした衣装 。これは 漁師についての話で、漁師が木の枝に素晴らしい羽毛の衣服を見つけ、思い出として、家に持ち帰ろうとしました。しかし、1人の美しい女性が漁師の前に立ちはだかり、元の天へ飛んで帰るための、その衣服を返して欲しいと嘆願します。漁師は、衣服はとても高価なものと思ったのか、返したくなかったのです。しかし、天女の舞に魅了された漁師は、彼女に羽衣を返します。

 私自身、海外の発明を日本人が創造性でもって取り入れた事例の経験を持っています。私が挿絵入り雑誌の駆け出し記者のころ、高品質のドイツ製カメラ、ローライフレックスにあこがれていました。とても、高価なカメラでした。70年代の初め、わたしは店頭で、ずっと欲しかったそのカメラが、はるかに安価で売られている事に気づきました。それは、ドイツ製品ではなく、ヤシカとしるされた日本製でした。時が過ぎて、日本製コピーは質的にも元の製品を超え、価格は下がっていきました。
 ニコン、キャノン、その他の日本製が市場を支配し始めました。一方、ドイツカメラは全く姿を消してしまいます。後に、私は特徴のある撮影カメラが欲しくてたまりませんでした。その製品はドイツ、フランスが独占していました。しかし、技術躍進の結果、勝利者は再び、模倣愛好家(卓越した模倣家)の日本人だったのです。現在、誰が、フランスやドイツの撮影カメラを覚えているでしょうか?同じ事例が、車や多くの商品に当てはまります。

 私の住んでいる大本本部でも、日本人の西洋発明品の改良能力についての知識は、豊かになります。トイレについて言えば、便器はビデも機能します。そのようなプライベートな空間では、まるで自分が宇宙船にいるような感じになります。快適で、温かくできる便座を想像してみてください。センサーダイオードと様々な色の押しボタンのあるパネルで装備されています。残念ながら、それらの機能については判読不可能でした。説明は日本語で書かれていたからでした。試行錯誤の手法で、便器に水を流し、便座の温度を調整する事が解りました。その他の機能を調べるため、頭を便座の上に傾け、無造作にいくつかのボタンを押してみなければなりませんでした。突然便座の下から小さな穴のついた管が出てきました。まるで、横断するフルートのように、そして私のほほに水が吹き出してきました。すぐに、これは臀部に当てるものだと理解しました。さらなる探索をより慎重に行なうと、管は別の方法で女性用に移動したり、また暖かい空気を出し、洗った箇所を乾かすことにも気づきました。

 付け加えるのを忘れたのですが、私の部屋の浴室にはいつも、1足のスリッパが専用として、常に備え付けられています。日本人の衛生についての熱意は、公衆トイレの中でも明らかです。亀岡の大本本部近くの公園に、日本式の家屋(トイレ)があります。絵を用いて示された3つの入り口があります。その絵のお陰で、男性用、女性用、そして身障者用に、それぞれ間違わずに入る事ができます。入り口を通って立ち止まり、靴を脱がなければなりません。木の段を踏んで登ると、その場所専用のスリッパが備え付けられています。これこそ、日本では普通の習慣です。

 単に衛生上の要求だけの話でしょうか? 大本信徒の三好鋭郎から、知ったのですが、日本では、掃除を通して学ぶグループの活動があります。公的施設や学校のトイレを美化することによって、清潔な心を作る目的です。産業経営者、鍵山秀三郎が設立したのですが、彼は何年もの間、毎日、1人で会社のトイレを掃除していました。職員達は皆、それを見ないようにしていました。しかし、少しずつ、職場の人間も参加するようになり、「清潔なトイレ」「清潔な精神」をモットーとした運動が設立されました。三好鋭郎は自分自身の会社にこの考えを取り入れ、朝の就業時間前、手でトイレを磨きました。まもなく、別の人が彼に続き、その活動によって心が豊かになると感じるようになりました。

 ヨーロッパでは単に衛生面からですが、日本では徳につながっています。そのように考えながら、亀岡大本本部で、掃除の女性と知り合いになりました。私は、ドアが開いているトイレを通り過ぎていました。そこで、彼女は水を注いでいました。私に気づくと、彼女は言いました。「ボーナン・マテーノン」。エスペラントを知らない人でも、この言葉で親切に私に挨拶してくれます。私は、通常、おなじ挨拶で答え、通りすぎます。しかし、この時はすぐに前に進む事ができませんでした。というのも、その女性が質問したからです。「お元気ですか?」と。ポーランドではそう聞かれると、自分の病気をすべて告白します。そしてさらに、政府に対する不満を付け加えます。でも私はすでに日本の習慣を学んでいたので、自分の健康状態を賞賛しました。そして、自分の健全状態への満足を表明しましたが、掃除の女性はさらに、質問を続け、私の疑念をふりはらい、彼女がザメンホフの言葉を巧みにあやつることがわかりました。

彼女は高橋和子と自己紹介し、数年前にエスペラント講習会を終えて、定期的にポーランドラジオを聞き始め、今はインターネットで聞き続けていると説明してくれました。ネットでは何度も繰り返し聞く事のできるメリットがあると彼女は言います。
 そんな会話の練習がありました。掃除担当、和子の、エスペラント文学及び自身の著述の知識に、私は強い印象を受けました。彼女はよく私の所に来て、自分の短歌を添えて、綺麗な葉っぱを私にくれました。
   さらさらと 
   石のまわりに 
   かさなりて  
   落ち葉の庭は  
   錦のじゅうたん
 日本の西洋化は19世紀の終わりに劇的、革命的な形で始まりました。そして、その過程で、第二次世界大戦後、強い衝動を受けます。日本語でローマ字と呼ばれ、ラテン語のアルファベットを用いた、伝統的な書き方にとって代わる試みは、あまり進みませんでした。もっとも、ローマ字は道路標識、駅、商店、看板などでは見られます。日本車のマークは、主にイタリア語、スペイン語、あるいは英語から借用した様々なモデル種の名前がローマ字で表されています。たとえば、マツダファミリア、ダイハツミラ、ホンダムーブ、トヨタカリーナ、ニッサンミクラ(日本ではマーチ)等です。この最後のマークの日産は「日本製品」とも翻訳可能です。しかし、本田、豊田は名字で、本田は2つの言葉から成り立っています。本は主な、田は田圃です。豊田の豊は肥沃な、田は、また、田圃です。田は同じ単語ですが、発音はダの時もあり、タの時もあります。日本のエスペラントチストの1人でこの本の著作を手伝ってくれたのは藤本達生(Huĝimoto) です。同じ名前ですが、彼の魅力的な奥さんはFuĝimoto と書きます。

 すべての日本人は、ローマ字を知っています。しかし、補助的な書き方として。日本語のローマ字化運動は、20世紀の始めに生まれました。国の改革を促進する効果的道具として考える知識階級の人達によって、発起されました。同じ事が、中国でも起こりました。両国において、エスペラントチストがその分野の開拓者として連なっていました。ローマ字思想は、エスペラントのお陰で、大本でも展開し始めました。ご神書でもローマ字を使って部分的に書かれています。

 亀岡で1933年3月に開催された、エスペラントとローマ字の夕べの開催報告を見つけました。何百人の大本信徒が参加しましたが、その人達を前にして、出口日出麿がエスペラントで話をし、その話をハンガリー人で大本の奉仕者、ヨセフ・マヨールが日本語に通訳しました。笑いと喝采が起こりました。ローマ字主義者は、エスペラントの影響を大きく受けて、日本語の文章を置き換える為にローマ字を用いました。ローマ字は、日本独自の系体で文部省の公的指示として承認されていました。だから、一般に訓令式あるいは、日本式と呼ばれています。日本式が小学校で教えられていました。現在では英語の全般的侵入によって、英語流の書き方が常に、より普及しています。

 結果として、日本人は月の光を採用し、さらに改良、改善し、そしてそのようにして、日本は日出づる国として知られている事を私は認めなければなりません。


(続く)第6章