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Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第4章(原文p37〜p48)
GRANDA ORIGINO
偉大なる根源

奥脇俊臣さん、大本とは何ですか? 
 「大本」という言葉を、日本語の意味から答えるとすれば、いくつかの同意語が考えられます。たとえば、由来、源、中心、基礎、根本、あるいは全般的に最も重要な部分のすべて。しかし、宗教大本の名称としては、偉大なる根源を意味します。大本は単に宗教だけでなく、明解に文化的側面として描かれている社会運動でもあります。宗派として、大本は、日本で最も古い宗教である神道に根ざしていますが、新興宗教として分類されています。というのも、大本は明治25年に綾部から誕生したからです。


明治25年は、西暦で言うと?
 1892年2月3日、地球(大地)の創造神により、出口なお開祖の体を通して、大本が生まれました。創造神の名前は日本史における初期の編年史、古事記、日本書紀に見られます。そのなかでは、国常立の神は、天地創造の場面で現れます。


帰神についてどのように考えればよいですか?
 帰神は、神道そして心霊主義の概念に固有のものです。一般に、人々は、霊がかりをきわめて非日常的な現象と考えます。というのも、霊がかり状態は外的な振る舞い、言動、そして行いに現れるからです。しかし、神の存在、霊の存在を知る人にとって、霊がかりは決してあり得ない現象でもなく、また驚きに値する現象でもありません。神懸かりとは霊がかりを意味し、きわめて日本的な表現です。神と言う言葉が使われていますが、その神は常に良い神ではありません。神道の考えでは、良い霊と悪い霊が存在するからです。加えて、大本教義には帰神について独自の定義があり、神懸かりという一般の解釈とは違っています。大本神観の詳細な説明には別の問答が必要です。

出口なおに懸かった神の名は?国常立の神。私はまたうしとらの金神という名も聞いた事がありますが?
 それは、別名です。大本ではうしとらの金神は、うしとら、すなわち世界の東北の方向において神として存在していた長い歴史があります。


なおが帰神を受けた目的は?
 主な目的は、最初の帰神の時すでに、啓示されています。押さえられない力により、出口なおの口から次のような言葉が発っせられました。

(注解 ここは、明治25年旧正月のお筆先ですが、原文のお筆先をそのまま、訳として載せるのではなく、あくまで原文のエスペラントからの和訳として、エスペラント学習の題材として翻訳しました。)(訳者)
 「うしとらの金神の世がついに来ました。神の世になるのです。松の色で継続させる為、梅の花で開きました。現代の世界は獣の世界である、悪魔のみで満ちており、より強いものが暴力で、より弱い者を支配しているのです。
 日本もまた獣の世界になっています。もし、世界が現在の状態で続くなら、やがて世界は失われるでしょう。そのために、私は世界中を破壊して、再建を遂行する目的で登場しました。だから、すべての人は準備を整えるように!この世界を、私は根本的に刷新するつもりです。3界(物質の世界、暗がりの世界、神の世界)の大洗濯、大掃除を成し遂げて、私はこの世を平和的に、何世代も続く神の世界として支配するつもりです。神の言葉は、いかなる間違いもなく現実となることを知りなさい!それは、髪の毛の横幅ほども違わないです。そうでなければ、神が実際に存在しない事になります。」


 帰神はどのようにして行なわれたのですか?そして、帰神は出口なおだけが、感知出来る形でなされたのですか?
 大本が他の宗教と違っている点は、大本神観が、純粋に理論主義だけではなく、経験主義であり、それは出口なお開祖の帰神だけでなく、その他いくつかの霊的現象が人間の感覚を用いて感知できることでも確認できます。


出口なおとはどんな人物ですか?
 生涯にわたって、貧困の中で暮らし、最初の帰神の時、すでに55歳の未亡人でした。


 出口なおの貧しさは、彼女が帰神を受ける前提条件であったと思われますか?
 神様の御心を考える時、私は自分が適切な人間ではないと思います。しかし、大本教義には、大本教祖(開教時の指導者たち)は神の意思によって低い階層の貧しい人から現れたと記されています。一般的に言っても、英雄、偉人は、低い階層の民から出現しており、ゴミ屑のように踏みにじられ、名誉を傷つけられています。しかし、彼らは神の意思によって誕生し、そのため、彼らは名声を得て世界の役に立つ人となるのです。


1892年2月3日の夜から4日に、出口なおに何が起こったのでしたか?
 節分、ちょうど季節の変わる日、なおの娘達、12歳のりょう、9歳のすみは、自分達の母親が、凍えるような寒さの中で、井戸水を浴びている光景を見たのでした。その時、なおは、子供たちに床につくように言います。その時、まさに帰神の始まりでした。開祖のあごは、ぴんと張り、目は爛々と輝いていました。腹の底から、男性の、低くて張りのある声で叫びました。普段のなおのふるまいは、温和で、もの静かでした。しかし、その瞬間は、体全体がぴんと張り、明瞭で、力強く、そして威厳に満ちた声を発したのでした。その声は、なおの意識の外にあり、その声を押さえることは出来なかったのでした。いくら、なおが固く歯をかみしめても。


それが、最初の啓示がなされた時ですか?
 はい、しかし帰神は止まる事がなかったのでした。13日間休みなく続きました。その間、なおは疲れを感じていました。あたかも、魂が体から抜けてしまったようでした。帰神はあまりにも強烈で、なおは、その間食べる事も、眠る事も出来ませんでした。なおは悩み、自分を支配する霊を振り払いたかったのです。自分の体から出て行く事を、お願いしました。その応答は、証言者にはなおの1人対話に思えたようでした。しかし、なおの普段の謙虚な声と、腹部から出る力強い男性の声を区別する事はできました。なおは、次々と起こる帰神のあいだ、神の使いとしての自分の役割を理解したのでした。出口なおは、世界のともしびとしてこの暗き世界を照らすために出現したのでした。


普通の人達にはこの出来事は信じがたく思えますが?
 私が思うに、同じように、おそらくキリスト教徒でない人にとって、神の子、イエス誕生につながる、天使による処女マリアへの受胎告知と、その結果、彼女が神の子を産んだということは信じがたい事でしょう? しかし、大本は、キリストの役割を救世主として認めています。そして、全般的に他宗教を否定せず、他宗の教義を真実でないとは考えていません。大本は、全ての宗教は同じ根を持っていると主張しています。すなわち、すべての宗教は、同じ根源に由来しているのです。


最初の13日間のあと、新たな帰神が続きましたか?
 はい、帰神は出口なおの昇天まで続く事になりました。口から発する最初の啓示のあと、次に、開祖は文字で記されます。


開祖は非識字者でした!
 そして、そのことは、大本教義の基礎となる啓示の特質、経験主義のもう一つの立証でもあります。このように、文字の読めない女性は、啓示を自動書記で著しました。まるで、開祖の手が、目に見えないエネルギーによって操られているようでした。26年間で、1万巻書かれました。日本の数え方では、1巻は国際規準のA4サイズより少し大きい紙を20枚綴り合せたものです。このようにして、最初の大本神書である「お筆先」が誕生しました。お筆先は文字通り、筆と先あるいは、より短く神の文字と書かれています。大本教祖、出口王仁三郎は、お筆先の内容を編集し、それは「大本神諭」として出版されました。日本語からのエス訳は、素晴らしい大本信徒である前田茂樹がおこない、1999年 Diaj Revelacioj として発表されました。


なおが文字を読めなかった事は、個人の特定のケースだったのか、あるいは彼女が生きた当時の女性には、典型的な状況だったのですか?
 なおは、特に不幸な元に生まれた子供でした。家族は、なおに、粗末な寺子屋での教育をも受けさせる事ができませんでした。しかし、彼女のみじめな運命は、彼女が出生した時代の歴史的時期にも理由があります。なおは、1837年に生まれます。日本にとって、大変困難な時代でした。国は、数百年の徳川幕府の支配のあと、大きな変化のふちから立ち上がるところでした。徳川幕府は、将軍の体制で、その権力は封建的経済関係および、諸外国、とりわけ西洋文明に対して厳格な隔離を基礎としていました。ヨーロッパは、産業革命に続き、極東に関心を持ち始め、とりわけ日本の変化を促しました。

 その変化は、単にヨーロッパからの影響だけでなく、国内からの理由もあったように思われます。 
 明らかに、徳川幕府は腐敗していて、大きな経済危機を引き起こしました。結果として、将軍権力に対抗する運動が広がりました。農民一揆がおこります。数年続いた飢饉が原因で、大混乱の時代がやってきました。人々は山に生える草を食べました。そして食料不足のため、何百人も亡くなったと計算されています。このように、丹波地方でも、数年続いた凶作の後、長引く大雨で、低温の原因による、まったく米がとれない1837年を迎えていたのでした。なおはこの世に誕生していなかったかもしれません。というのも、なおの母そよは、2人の子供を養う事ができなかったので、これから生まれようとしていた3人目は間引こう(生まないようにしよう)と決めていました。ある神秘的な力が引き金となって、妊婦は中絶をあきらめる事になりました。


なおはどんな家庭に生まれたのでしたか?
 なおの母親、そよは綾部出身でした。父親の名前は五郎三郎で福知山に住んでいました。桐村家の息子で、よい腕を持った代々続く大工の家系として知られていました。そよは、裕福な家に嫁いだように思われました。しかし、やがて、そよは夫との問題に直面するのでした。そよの夫は、酒にふけり、責任感のない人だったことが明らかになりました。五郎三郎は、酒を飲んでは妻や子供たちに手を挙げました。一番幼いなおにも容赦しませんでした。五郎三郎は、何代にも渡って蓄わえていた桐村家の財産を、あっという間に浪費してしまいました。そよと子供たちは、悲惨をきわめていました。飢饉の時代に、なおさら大変な事でした。それでも、そよは真摯に自分の運命を受け入れ、夫に仕えました。そしてついに、夫も心を入れ替えました。ところが、夫は、突然、41歳でコレラ感染により亡くなります。なおは、その時10歳にも満たなかったのですが、奉公人として働き始めなければなりませんでした。なおは常に、雇い主から褒められました。ごちそう、あるいは衣服を頂いたときは、健康にすぐれない母親のもとにまっすぐ持って行きました。母親は生き延びるために、隠れてそれを売っていました。なおは、一度も学校へ行かずに成人になりました。しかし、彼女には事前に出来事がわかる能力があり、また修行で山にたびたび姿をかくす、そんな子供であり人々の注目をあびていました。


なおは父親の名字が桐村であるにもかかわらず、出口の名で知られているのはどういう事なのですか?
 17歳のなおは、そよの妹で、なおの叔母、出口ゆりの養女となりました。ゆりは、生まれつき出口の名前を継承したわけではなく、養女として出口姓になりました。ゆりの夫もまた、出口家の息子として養子となりました。ゆりの夫は、若死にしました。ゆりには子供がなく、長らく、姪のなおに目をかけていました。ついに、ゆりは、姉、そよの合意を得ることに成功し、なおは綾部に赴き、出口家の家族になりました。なおは綾部に移ったものの、何度か福知山に逃げて帰っています。というのも、なおは養母のゆりと、そりが合わなかったのでした。ゆりと亡くなった夫の兄弟との間に争いがありました。そのゴタゴタは、ゆりの自殺という悲劇的な結末になりました。ゆりは、野井戸に身を投げたのでした。しばらくして、なおは綾部に戻り、出口家の正当な相続人となりました。なおは、1855年に結婚しました。19歳になっていました。なおの夫は四方豊助でしたが、彼もまた出口家に入り、出口の名を引き継ぎました。なおは、2つの意味で出口姓を名乗る権利を持っていた事になります。なおの夫は、名前を政五郎と改名、それは代々一族で好まれた名前でした。政五郎は、28歳の大工で、同業の大工仲間が賞賛し、羨ましがるような家を建てる力量がありました。結婚直後、政五郎は綾部の新宮坪の内に、立派な家を建てました。


それは、現在、大本綾部本部のみろく殿のそばにある場所ですか?
 はい。そこで、なおは幸せに満ちた暮らしを始めました。長女のよねを出産しました。しかし、幸福の時は長くは続きませんでした。その後のなおの人生は、いばらの道でした。夫、政五郎は腕のいい大工でしたが、お金を稼いでは、そのすべてを気楽に使ってしまいました。酒を飲んで、使い切ってしまうのでした。加えて、政五郎は芝居が大好きでした。巡業の一座がやってくると、数日でもそれについて行き、家に帰る事を忘れてしまうのでした。そのようにして、夫は少しずつ家財を売り払っていきます。また、よく、高い利子でお金を借りて、その債権者が、なおのところに借金の取り立てにやってきます。なおは、支払いをする事ができず、結果、水田が一つずつ他人の手に渡ることになりました。家族は貧しくなる一方、子供の数は増えていきます。なおは11人の子供を生みます。そのうち、3人が幼児期を迎える前に亡くなっています。空腹は、なおの家庭における日常の客となってきました。


なおの母親の運命が、なおに繰り返されたのでしたか?
 類似性は、夫の政五郎が父親の五郎三郎に似ていたこと。この世を去る前に、精神的安定、そして道徳的意識を取り戻した事によっても表現されます。なおは、母親のそよを模範にして、大きな苦しみの中でも夫に背を向けず、夫が立ち直る機会を残したのでした。1885年、政五郎は建築中の家から転落し、全身マヒとなりました。その事故によって、動くことの出来ない夫の看病という新たな負担が、なおの背中にのしかかりました。同時に、なおは、家族を飢え死にから救う努力をしていました。自ら作ったまんじゅうを、遠方まで売り歩きました。娘の1人が、いっそ、おとうさんは死んでしまったらよいのに、と不平を呟きました。その時、母親は、その娘を厳しく戒め、父親の世話をもっとするように諭したのでした。2年間の闘病後、政五郎は死期を感じ始めました。ある人が私に話してくれたのですが、その時、夫はなおの方を向いて長らくの世話に感謝し、また、この世の別れに末期の酒が飲みたいと、懸命に頼んだそうです。なおにはお金は一切ありませんでした。なおは、自分の古いはかりを借金のかたとして、あちこちへお金を借りるため奔走しましたが、すべて断られます。同じように貧しい同業者が、お金を工面してくれました。政五郎は酒を飲み、笑顔で横になりました。最期の時でした。


その当時日本はどのような歴史の段階にあったのでしたか?
 将軍による封建体制は、最終的に崩壊します。いわゆる明治維新で、1868年に始まります。その結果、ヨーロッパで皇帝と呼ばれる天皇が、日本の政治舞台に中央権力として再び現れます。天皇は、数世紀の間、実権の座から遠ざけられていました。その間、軍事独裁者のシステムで、将軍が支配していました。天皇支配の維新は、現在の鹿児島県、山口県の侍のもと行なわれましたが、その目的は、日本を資本主義の発展のために開国すること。それはヨーロッパ文明を受け入れる事を意味していました。1889年には劇的な改革を確認する憲法が布告されました。憲法布告前に、4つの社会的階層が廃止され、新しい土地の行政区分けが導入され、将軍の封建制度における力が転覆されました。加えて、1890年国会が確立されました。


明治時代とはどんな時代ですか?
 明治は睦仁天皇の統治時代の名前です。1868年から1912年の天皇崩御までの時代です。日本では年号は、伝統的に統治期間によるその範囲で、決められます。過去の時代には、1人の天皇の治世で、年号が変わることもありました。しかし、それは今言った期間では起こっていません。なおの帰神は、明治25年と決められます。よく言われるように、それは途方もない時代でした。日本の近代化への過程は、しばし強制を伴って実現され、見知らぬ西洋文化の押しつけを連想させる事があります。資本主義自身が対立する環境において、国家の厳しい統治、そして時代の変化における様々な側面的問題、その中には人民の貧困も含まれています。そんな時代に、大本は誕生しました。大本のメッセージは人類の問題解決でした。大本は激しい批判を行ないました、そして社会の改革のため、これから起こるであろう事に、警告、訓戒、そして予告を発したのでした。これらすべてがお筆先に含まれています。


自身は読み書きできなかったにもかかわらず、その啓示を記した出口なおのお陰で、この神書を今読む事ができます。お筆先はどのように始まるのですか?
 未亡人になったあとも、なおのどん底生活は続きます。8人の子供のうち、もっとも幼い、りょうとすみだけが家にいました。あとの6人は社会に出ていました。15歳の息子清吉は、紙すき職人のところで修行していて、再生紙のための古紙が必要でした。なおは早朝に出かけ、古い紙やしわくちゃになった布を集めました。この品物を求めて20キロも遠くへ出かけ、夜遅く帰宅することもありました。家には、空腹の幼い娘、りょうとすみが待っていました。ある時、山中で吹雪にあい、危うく命を落としそうになりました。


人は理解出来ない振る舞いを、精神病と分類する事があります。
 そのような疑いが、なおにも当てはまりました。1893年、明治26年初め、2人の幼い子供たちも家を出て別の場所で働いていたので、なおはひとり暮らしでした。当時、綾部では一連の火災がありました。なおは、放火を疑われ逮捕されました。警察は、放火魔を見つけた後も、なおを自由にしませんでした。なおの義理の息子、長女よねの夫が、介入したのでした。夫は、義母の精神病を証言しました。義母を、家から遠ざける目的だったと示されています。なおは、危険な狂人として、さらに不自由な状態におかれました。なおはそのような恥ずべき状態に我慢できず、自らの命を絶つことを望みました。しかし、のちの彼女自身の証言によると、神はなおに再び帰神し、自殺を許さなかったのでした。なおは神の意思に完全に服従することになりました。


なおの監禁はさらに続きましたか?
 はい。40日間続きました。しかし、その少し前に、なおは神の声を聞きました。神はなおに筆を持って書くように命令します。文字を知りません、と言うと、また神の声が聞こえてます。書くのは、なおではない、筆を持て、と。筆はなかったのですが、古い釘が目に入ったので、それを手に持つと、なおの手は自然に動き始めました。柱に文字が現れてきました。それをなおは読む事が出来ません。なおは牢屋を出ましたが、自分の家に戻る事はできませんでした。義理の息子が売却していたからです。なおは、娘、ひさのところへ行きました。そこにはすでに、一番下の娘、すみがいました。すみは、帰神について最も重要な証人であり、のちの2代教主となる人物です。続く26年間、出口なおは無意識に本当の筆で、本当の紙にお筆先を書き続けました。


日本語には様々な文字がありますが、開祖はどの文字を使われたのでしたか?
 開祖は、円形の仮名、日本語でひらがなと呼ばれる文字を用いて書きました。それは、漢字と同じように書道のために使われた音節表です。お筆先を調査した書道家は驚嘆して、超人的かつ天才的な線を用いた高貴な肉筆と命名しました。

(続く)第5章