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Rakontoj20el20Oomoto.jpg Rakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

1章(原文p7〜p15)
Cent Kvindek Tagoj  
150日

 黒々とした頭が、広い浴槽の温かいお湯から突き出ています。首まですっぽりと浸かった私も、その浴槽にいます。プカプカ浮いている頭が、順番に私に話しかけます、エスペラント語で。そのような光景は、日本の亀岡という市に私が滞在している間、何度となく、繰り返されました。私は、亀岡で「文化宗教運動」を展開する大本本部のお世話になっていました。日本人は一日の終わりに、全身を熱い湯ぶねに浸し、熱いお湯でリラックスする事を好むのです。外が寒い日には、なおさらです。 
 2009年の初め、まさにそんな冬に、私は日本に到着したのでした。

 亀岡の大本本部は、5つの独立した建物から成り立っていますが、通路でつながっており、建物の外に出なくても、行き来する事が出来ます。実際のところ、複合体の建物は迷宮に似ています。しかし、エスペラントを知っていれば大丈夫です。道に迷う事はありません。日本語とエスペラントの標識をたよりに、迷う事なく目的地に行く事ができます。そのようにして、新参者の私は、お風呂にも容易に行く事ができます。大浴場でも2つの言語による案内が目にとまります。「浴槽にタオルを浸けない事が習慣です。」「スタッフが掃除をしている時、風呂場に入らない事が習慣です。」等。これらの案内は、横に書かれている日本語の、文字通りの直訳です。ヨーロッパでは、これらの「習慣です」は「禁止です」に替えられるでしょう。お風呂の入り口にも「靴を脱ぐ事がお願いされています」との縦型の看板が見られます。まさに文化の違いが見られます。

 私の亀岡への到着は、偶然、エスペラント越年集中研修会の期間に当たりました。
 講習会は、4日間続き、2009年1月2日に終了しました。
 一日6時間ずつ学習します。講演会等の教養講座もあります。
 その他、様々な会合、セレモニー、そしておしゃべりも加えられます。このようにして、学習は、夜の時間帯にまで及びます。
 まさに、日本人の真面目さは、神話ではありません。
 同じ事が韓国人にも当てはまります。10名が韓国から到着しました。1名のマレーシア人が、まるで計ったように参加されました。
 参加者のリストをきりのいい100名で完結する為に。偶然に?
 100は10×10で、大本では、10という数字を理想の象徴と考えるのです。
 運動の紋章は白地の背景に赤い10コの丸でできています。

 越年研修会は、私に驚くほど意識をもたらせた多くのことの1つで、それは、国際語の普及に対する大本の注目に値する貢献です。

 その貢献は数十年にわたる伝統にある事が解りました。
 決まった講師がお世話する越年研修会は、通常多くの参加者を集めます。
 今回は、特別に海外の児童教育の専門家が、招かれていました。
 クラスは、学力のレベルによって7つに分けられていました。


 日本人は、ハンガリー人と同じようにまず名字を、そして名前の順で表します。
 それでも、多くの日本のエスペランチストは、一般的なヨーロッパの習慣を取り入れ、最初に名前から表します。 ただ、誤解を避ける為に、名字をすべて大文字であらわします。
 ここで、越年講習会の講師を紹介すれば、Hiromi JANO, Hirotomi HAZAMA, Masamiĉi TANAKA, Hiroshi SAITO, Kacuja KIMURA, というように表されています。
 日本語からの文字の書き換えでは、常に英語の影響をより強く受けている場合があります。
 結果としてMasamiĉi ではなく、Masamichi と綴るのです。

 出口紅大本教主は、越年研修会の参加者とお会いになり、エスペラントでご挨拶されました。 
 教主さまは、常にエスペラントの文章でご自身のご挨拶を始められ、最後は常に「コーラン・ダンコン」で終わられます。
 管理、宣教の中心である亀岡の大本本部は、同士のような雰囲気を私に印象づけてくれました。


 天恩郷の広い敷地で、2言語による看板が目に飛び込んできます。
 その看板を頼りに、私は容易に教団組織の構造を知る事ができ、それぞれの部屋を見つける事ができます。
 芸術部、作品展示室の事務所、人類愛善会などです。


 大本における、エスペラント活動の核となる専門組織は「エスペラント普及会」で、そこで働く人たちは、当然エスペラントを話します。他部所でも、1人ずつの割合で、エスペラントを話す人を見つけました。私の大本滞在期間のほぼ半分の間、私はたった1人の外国人エスペランチストでした。その事実自体によっても、エスペラントの実際的な使用が説明できます。ますます多くの人達が、常に私に話しかけてくるようになりました。彼らの中には、ずっと以前は講習会でだけ、エスペラントの練習をした人がいました。エスペラントは、私の存在によって響き渡り始めました。しかし同時に、私の進む道においても、奇跡的に言語の障害を取り除いてくれました。エスペラントは、私の唯一の言語ツールであり、言語の問題を解決してくれる、まったく現実的な方法である事が証明されました。出口聖子4代教主様は、かつて言われました。「エスペラントは、すでに、明日の言語ではなく、今日の国際語になっています。」

 大本での私は、最終勝利者と言える資格があると思います。なぜって? 亀岡には、カトリック教会があり、私は日曜日にお参りしていました。ミサは日本語で行なわれていましたが、私は積極的に参拝しました。ポーランド語やエスペラント語で、祭典の風景や礼拝式の流れについては熟知していたので。礼拝が終わると、同じカトリック信徒として、参拝者は、興味を持って私を囲みました。エキゾチックな海外の信者である私について、何でも知りたかったのでした。その時になって、残念ながら、「数千年の壁」が現れます。我々カトリック信者は、お互いを理解することには全くお手上げ状態でした。

 エスペラントは、思想的に大本に近いのです。
 独自の普遍性を用いた大胆な共通の目的が両者を活気づけるのです。
 大本の経綸によれば、人々は1つの輪の中へ集められます。
 ルドビーコ・ザメンホフによれば、エスペラントは商売をする人の為ではなく、大きな家族の輪を創造する事を助ける為に、創造されました。
 出口王仁三郎教祖は、すでに1923年にこの類似性に気づき、海外との相互理解の道具として、国際言語を導入しました。
 エスペラント、大本の歴史において、ほぼ同時期に、両者の運動に対する残酷な弾圧が起こりました。
 私自身のエスペランチストとしての人生において、世界中で日常的にエスペラントの知識が活用されている組織は3カ所だけあることに気づきました。
 世界エスペラント協会本部の事務所、ブラジルのエスペラント教育施設である「ボーナ・エスペーロ」、そして、大本です。

 亀岡の大本本部は、理想的とまでは、言えないまでも、模範的なエスペラント国の縮図であることに、私はますます確信を持つようになりました。ご存知のように、エスペラント国、エスペランチストの国は今だどこにも存在しません。エスペランチストの想像の中を除いて。その時その時にエスペラント大会を楽しみ、あるいは、その想像上の国の市民権を持って、世界中の同じ言語を話す家庭から家庭へ、客人として旅行もできます。そのような蜃気楼のようなエスペラント国とは違って、大本のエスペラント国は、現実的で強固なものです。大本の領有地があり、エスペランチスト、あるいは、エスペラントは話さなくても、エスペラントに理解を示す人達が存在し、そして独自の伝統(1973年発行『大本エスペラント50年史』を参照)があるのです。

 上記の内容は大本エスペラント史から引用しています。国際語による、大本での出版物は、教団の教典を含め、数えられないほどあります。それとは別に、大本をエスペラントと結びつけるものを(注1)ブローニュ宣言によってのみ理解するのか、それとも大本の中に内的思想をも見いだすのか、内的思想という、一般的エスペラント文化の不可欠な要素について無視する事はできないと思うのです。それこそが、この本の執筆に私を導いた主なる前提なのです。


 私と大本の出会いは、1987年から続いています。その年、エスペラントが発表されて100年目の記念として、ポーランド国営テレビが、私に、エスペラントに関するドキュメンタリーフィルムの制作を、委託しました。実際に、エスペラントが実用化されている現場を紹介する事が、主な仕事でした。私は、世界14カ国で、その現場を探し求めました。日本では、大本にその現場を発見しました。制作チームは、ワルシャワ在住のエスペラントチスト、松本照男さんの同行で、亀岡、綾部へ向かいました。記念映像のための5分間エピソードだけでなく、さらに大本に関する30分のドキュメンタリーを制作しました。同年7月、大本キャラバンがポーランドにやってきました。ワルシャワで開催された、エスペラント記念世界大会に参加する為でした。その時大本の人達は、トレブリンカ絶滅収容所で感動の祈りを捧げられました。ナチスドイツが、数十万のユダヤ人をガスで殺害した場所でした。殺された人の中には、ザメンホフの娘、ソフィアとリディアが含まれています。1989年にも、大本の人達は再びワルシャワに来られました。世界平和会議に出席し、カトリック教会で大本祭典を行いました。

 6人の大本のエスペランチストが、私の著書『ザメンホフ通り』の日本語訳の共同翻訳チームに加わってくれました。このユニークな翻訳手法を成功裏に導いてくれたのは、東京の小林司さんでした。5年後、ロッテルダムでの、世界エスペラント大会期間中に『ボーナエスペーロ 理想と現実』という本が発表されました。私が、ほぼ1年間ブラジルに滞在して書き上げたものです。
 大本分科会後、私は大本キャラバンのチーフである吾郷孝志さんと出会いました。吾郷さんは、私に、私が大本について本を書くことができるかどうか、尋ねました。即答は困難なものでしたが、私は躊躇なく、まずは、下調べの為に、大本の客人として滞在する事を了承しました。


2009年初めから、私はまるで、亀岡の大本本部、管理部門の奉仕者になったかのようでした。コンピューターが置かれた、エスペラント普及会のデスクが、私にもあてがわれました。そして、エスペラントによる豊富なデータがある資料室、図書室を自由に使わせていただきました。私は、他の奉仕者と同じように、決まった労働時間を働き、決まった時間に食事休憩しました。そこで、私は、日本人の持っている労働意欲、そして、他人への優しさ、尊敬が溢れる日常の生活様式を学びました。実際、それは、日本人の一般的なふるまいでしたが、大本は理想世界へのモデル(型)と考えていて、よりその傾向が強いように、私には思えました。

 10万の人口を持つ亀岡は、日本の規準からすれば、小さな市です。京都から北に20キロ、丹波山脈の裾野に位置しています。同じ山系で、さらに50キロ離れた大本の聖地には、驚くべき建築の複合体がある綾部が位置しています。2月と5月の大祭時に加えて、私は何度か綾部を訪れました。また、Cukinamisaiにお参りする機会が何度がありました。Cukinamisaiとは毎月の祭典で、日本各地にある、大本の支部でもおこなわれています。地方機関では、神戸本苑での月次祭に初めて参拝しました。サプライズがありました。神戸青年グループが、ポーランド民謡「森へ行きましょう、お嬢さん!」で私を迎えてくれたのです。日本語とエスペラントで歌っていただきました。そこで、私はオリジナルのポーランド語で歌うはめになりました。次に参加した月次祭は、(注3)播磨市でした。将軍の白い城が、堂々と市にすっぽりと王冠をかぶせたようでした。京都本苑の月次祭は忘れられないものでした。祭典後、京都のオオモターノが、日本の古都に何百も存在する驚きに値する場所をいくつか案内してくれました。15世紀の金閣寺、8世紀の仏教寺院である、清水寺などです。また、生まれて初めて、能楽師による能一番を鑑賞する事が出来ました。

 祭典に参拝すると、お話する機会が与えられました。私のエスペラントは、日本語に通訳されました。人生で、これほど多くの人の前で、エスペラントで話をする経験は今までありませんでした。合計、数万人に話した事になります。月次祭のお陰で、私は、日本の様々な地方にまで旅行する機会が与えられました。そして、現代の日本の側面も知る事が出来ました。たとえば、超高速列車、新幹線に乗って旅行したことです。4時間以内に1,000キロを走り、30秒以上の遅れは許されません。京都から最も遠い南の島、九州まで、果てしない橋とトンネルを交互に超えながら旅行しました。


 そういった旅行には、たいてい大本のエスペラントを話す人が私について来てくれました。けれども、時に私は、勇気を奮い起こし、たった1人で明石市へエスケープしました。週末に、スポーツ好きな大本の田渕八州雄さんの家族とテニスをするためでした。田渕さんは、英語の教師であり、りっぱなエスペランチストです。その市は、本州と淡路島を結ぶ、明石海峡大橋で有名です。世界でもっとも大きな吊り橋です。二つの巨大な橋脚の間の主なる橋桁は、2キロの長さがあります。日本のエスペランチスト達は、自慢げに、大橋の建設への貢献者として、ルドビーコ・ザレスキー・ザメンホフについて語ります。でもその詳細については知らないようです。

 私の依頼で、エスペラントの創始者の孫は次のような説明を送ってくれました。実際、私は、明石海峡大橋の建設プロジェクトについて意見を求められました。相談は、海底上に橋脚を建てる方法論に関してのものでした。当時、私は、様々な可能性について考えを巡らし、比較研究に関しての仕事に従事していました。その研究を1986年4月に発表し、プロジェクト責任者に提出しました。明石海峡大橋は、最初の高速道路網でした。瀬戸内海を挟んで、本州と四国を結んでいます。 

 それぞれの小島の間に架かる大橋が多くの地域で高速道路を構成しています。車での高速運転は、まるで海の上を飛んでいるように感じます。そのようにして、私は四国に渡り、ここでも三好悦郎さんのゲストとして月次祭に参拝しました。しかし、彼の家に招かれて初めて、彼の魅力的な人生について深く知ることができました。不幸な幼少時代、そして、後に企業者としての大成功。彼は、世界的知名度を持つ手袋会社「スワニー」を(注5)創設しました。大本人として、エスペランチストとして、理想を実現しながら、三好さんはつつましい生活をされています。

 2009年5月、私は大本を離れました。本を執筆するには、まだ十分な知識を得ていないとの気持ちを持ちながら。私は勉強ばかりしていたわけではありません。日本の春には、心を奪われました。春の彩り、異国情緒、魅力的なお祭り、そして日常の出来事も同様でした。これらすべてが、撮影に値するものばかりでした。帰国した私は、撮影した映像をチェック。映像は、興味ある映画の題材に満ちていることを確認しました。私は適切な方法で、撮影した映像をまとめ、UEA(世界エスペラント協会)芸術コンクールへ出展作品として送りました。映画のタイトルは『日本の春ー2009年の大本』で、優勝しました。発表は、2011年、コペンハーゲンでの第96回世界エスペラント大会の期間中におこなわれました。大会には、大本代表として、田中雅道さん、奥脇俊臣さんが参加されていました。奥脇さんとは、映画の注解について話し合いました。親しい会話の中で、映像を付録として書籍を出版するという考えが生まれました。それは、映像と書籍によって、互いに補完するとの考えでした。その種の書籍と映像の組み合わせにより、さらに深く、両作品を理解することができることでしょう。恐らく、そのような実験は、エスペラント文化の中で、最初の試みでありました。

 序論の章を終えるにあたり、親愛なる読者の皆様に、この書籍が、控えめな著作である事を認識していただきたく思います。私はただ、150日間、大本に滞在して、うまく学び得たことを書きました。出版物、原稿も読みました。ジャーナリスト、映画監督の目で、毎日、観察しました。大本の人達は、快く私と会話して下さいました。特別な感謝を、前田茂樹さん、藤本達生さん、硲大福さん、斉藤泰さんに、そしてその他多くの人達に。最後に、この本の出版のきっかけを作ってくれた吾郷孝志さん、そしていくつかの章の為に私のインタビューを受けてくれ、全体の原稿について私の相談にのって下さった、奥脇俊臣さんに感謝したいと思います。

(続く)第2章