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Rakontoj20el20Oomoto.jpgRakontoj el Oomoto『大本物語』
定価2,700円(税込)
ローマン・ドブジンスキー著
和訳 矢野裕巳 

第2章(原文p16〜p25)
UNU INTERLINGVO
一つの言葉

 亀岡には巨大な岩があります。そこにはエスペラントによるレリーフ、「1つの神」「1つの世界」「1つの言葉」が書かれています。大本のエスペラントの歴史において、それをマイルストーンと呼ぶ事ができます。
 大本のエスペラント導入40年を記念して、1963年7月14日、その除幕式が行なわれました。最初の講師である重松太喜三や、その他の重鎮エスペランチストを含み、300名がその厳粛な式典に参加しました。参加者の1人、西村光月が記念碑に刻まれたその言葉を朗唱する中、3代教主さまが除幕されました。 

 この2人の開拓者に加えて、その他の傑出したエスペランチストも表彰されました。すなわち、由里忠勝、中村田鶴雄(陽宇)、当時の世界エスペラント協会会長の八木日出雄です。しかし、出席者の過半数は青年達でした。除幕式の第2部では、青年達がエスペラント劇を披露しました。加えて、2人の青年の為に感動的な壮行会が行なわれました。出口京太郎、梅田善美。彼らは世界への大探検を企てました。当初の目的はブルガリアの首都、ソフィアで開催の世界エスペラント大会でした。さらに驚く事に、出口京太郎が、弁論大会で入賞するという快挙がありました。

 2人の青年は、ヨーロッパ13カ国へ旅程を続けました。さらに、彼らはエジプト、米国、そして香港を訪問。110日の旅行を終え、帰国しました。彼らは、いつも、エスペラントで54回講演を行ないました。対象は必ずしも、エスペランチストではありませんでした。講演は、10の言語で部分訳され、トータルで14,000人の聴講を得ました。またラジオ、テレビ、そして雑誌のインタビューを46回受けました。2人は、大本で培った合気道や能のような日本伝統文化も、様々な場所で紹介しました。
 出口京太郎と梅田善美は、エスペラントによって、自分達の旅行を成功させました。日本のマスコミも、その事実に注目しました。時は1963年でした。日本はすでに、戦後の危機を脱し、早急な諸外国との関係を模索していました。特に、輸出の拡大を促進するために。そして2人のオオモターノの探検は、大胆かつ、見習うべき行動として、日本で認められました。様々なマスコミが、2人にインビューしました。また、800万部を発行する、当時日本でもっとも大きな朝日新聞社が、興味を示した事も重要な事でした。

朝日アドベンチャーシリーズの枠のなかで、出口京太郎著 『エスペラント国周遊記』が発行されました。この書籍は、しばらく人気を博し、エスペラントの宣伝に大いに貢献しました。

 ここで、1923年の最初の講習会にもどりましょう。その参加者の誰も、大本における最初のエスペランチストではありませんでした。というのも、それ以前に、出口王仁三郎の秘書である加藤明子がエスペラントを学んでいたからです。大本の、出口王仁三郎教祖は、その数年前にエスペラントについて知っていました。しかし、当時のオーモターノが、そのような新しい言語を受け入れる用意がまだ出来ていない事を認識していました。

 1921年、いわゆる、第一次大本事件が勃発しました。弾圧の始まりで、多くのオーモターノが被害を受けました。出口王仁三郎は、告訴され裁判を受ける事になりました。当時、王仁三郎は丹州時報という新聞で、エスペラントについての記事と京都の同志社大学での講習会案内を読んでいます。そして、自分の長年の願望を実現させる決意を固めたのでした。
 しかし、秘密警察による監視が継続する当時の状況の中で、王仁三郎は、信者には疑いに値するエスペラント講習会への参加を含め、いかなる公的活動も中止したほうがよいとの見解を発表しました。そこで、王仁三郎は女性を登用しました。そうする事によって、疑い深い警察の捜査を混同させました。というのも、当時、一般的に女性は、政治活動の対象として考えられていませんでした。このようにして、女性が、大本での最初のエスペラントの信奉者になりました。
 加藤明子は、高見元男という学生から、同志社大学でのエスペラント講習会についての情報を受け取りました。高見元男は後に出口日出麿の名で、偉大なオーモターノになりました。彼は、3代教主直日の夫になり、大本教主補として、大きな役割を果たされました。ソフィアでの弁論大会で入賞した、出口京太郎の父親です。
 130名以上が、綾部で、最初の講習会に参加しました。講習会を指導したのが、重松太喜三でした。彼は同志社大学の学生で、エスペラントは、東京から来た学生達のお陰で、新しい刺激を受けました。ちょうどその頃、関東大震災は、日本の首都をマヒ状態にしていました。大学を含め、多くの公的施設は、一時休止に落ち入っていました。1923年11月24日、第2回エスペラント談話会において、出口王仁三郎は次のように発言しています。「10年後、すべての人は、エスペラントを習得していなければ、時代に取り残されるだろう。」 王仁三郎は、日本中にエスペラントを広めようとするだけでなく、エスペラント発祥の地へ、反対に輸出できるようにしたいと述べています。

 90年前の、そのような言葉、最後は勝利するんだと言う信念に驚かされます。出口王仁三郎は、講演の中で次のようにも語っています。「大本の幹部、あるいは信徒のなかには、エスペラントより日本語を広めるほうが、よいのではないかと主張する人もいます。もし、たとえば、ナポレオンのような英雄が日本に現れ、万一世界の国々すべてを征服し、武力で人々に日本語学習を強制すれば、おそらく、ある程度まで効果をあげることが出来るかもしれません。でも、そのようなことは決して起こりません。と言うのも、日本は、決して武力を用いる国ではないからです。その原則を、永遠に理解し、また他の人には、言葉を用いて、平和的な方法で理解してもらわなければなりません。そして、その為には、仲介言語エスペラントが絶対に必要なのです。」

 どんな時でも、日本語が国際語の役割を主張したであろうか? この問いかけに答えるために、大本の歴史に注目してみましょう。
 大本教義は、当初から、国粋的かつ国際的な要素を含んでいました。しかし、大本の根源は神道にあり、神道は本質的に日本の宗教であり、日本は神々の国です。初期の大本信徒は、日本を世界の中心と考えていました。日本から、新しい神のメッセージが外に向かって光を放つと考えていました。そして当然ながら、そのメッセージは日本語で発せられます。後に、大本は言語障壁の存在を意識し、その問題解決の方策として、エスペラントを見い出しました。そういうわけで、大本は、教団の誕生以来、その4分の3の歴史をエスペラントと係わってきました。
 出口王仁三郎は様々な面で、大本史にまったく新しい局面を与えてきました。そして、国際語に関しても同様です。王仁三郎は、普遍性と特殊性の両要素の組み合わせを大本教義に認めました。しかし、宗教的、道徳的統一に関しては、日本中心主義の概念を拒否しました。「神の眼からは、日本も外国もない(出典『出口王仁三郎全集第1巻第3篇第2章』)」と。しかし、王仁三郎は、また、神に選ばれた民という選民思想を認めませんでした。彼の国際主義的ふるまいには、すべての国の文化に対して敬意を払うと言う考えが含まれています。まさに、その文脈の中で、大本による国際語エスペラントの早期の採用がなされます。当時、出口王仁三郎は、大本運動の神書の1つである霊界物語を口述していました。実際、霊界物語の中で、エスペラントについて言及し、その国際語に対する特別な価値が確認されています。
 その時、大本は、教団の国際活動の有益な道具としてエスペラントをみなしていました。しかし、エスペラントは、それ以前すでに、日本列島に根付いていました。その時代、エスペラントは、エスペラント史でいういわゆる、「復活と前進」時代を日本で生き抜いていました。20世紀前半のエスペラント出現以降、エスペラントは開花し始めますが、まもなく枯れてしまいます。1919年、日本エスペラント学会の設立がその復活となりました。学会は、日本のエスペランチストすべての共通の活動を、基盤としていました。日本エスペラント運動史の、その華やかな始まりは、あたかも小坂狷二のエスペランチストとしての活動と同意語のようです。小坂は、日本エスペラント学会の組織化、出版化活動の原動力であっただけではなく、国内中にエスペラントの存在を、主に雑誌を用いて、うまく、宣伝しました。
 出口王仁三郎は、雑誌からエスペラントについての情報を汲み取っただけではありませんでした。同時期、日本では、バハイ教徒の活動家がエスペラントを用いて布教を行っていました。米国女性のアグネス・アレクサンダーは、1915年、日本に移り住み、常駐して長年、任務を遂行しました。バハイ教徒は、自分達の布教の光景を、ダイナミックに進化する運動として大本に注目しました。
 1922年、米国人バハイ教徒、アイダ・フィンチ女史が出口王仁三郎を訪問。そして翌年1923年、もう1人のバハイ教宣教師マーサー・ルート嬢を伴い、フィンチ女史は再び王仁三郎を訪ねます。大本は、バハイ教活動の効力に気づきました。ザメンホフの娘、リディア・ザメンホフに関する書籍の中で、彼女はバハイ教に改宗(ユダヤ教から)しています。当時東の国々では、エスペランチストはしばしば、バハイ教徒ですか?と質問されたと記されています。
 バハイ教徒の訪問を受けた直後、第一回エスペラント講習会が開かれました。そして、同年1923年の秋季大祭で、出口王仁三郎は自身の挨拶として、エスペラントを用いて今後大本運動を外に向かって広げると宣言しました。まもなく、聖師は投獄されます。投獄中の1924年、エスペラント総会が綾部みろく殿の神前で開催されました。大本におけるエスペラントの責任者、出口宇知丸は、信徒のエスペランチストに与えられた仕事の重要性を強調しました。と言うのも、大本運動がエスペラントによって海外へ乗り出したからです。このような大胆な計画を実現する為に、全『緑の戦士』部隊が必要とされました。
 最初のエスペラント講習に続き、東京商科大学の学生、由里忠勝の指導のもと、さらなる講習会が開かれました。由里の協力の下で、大本神書の翻訳も始まりました。このように、エスペランチストの数が短期間に増え、当時の報道には次のような文が見られます。「綾部の大本教団では、各家々や道すがら、心地よいエスペラントの挨拶がすでに、響き始めました。」

 王仁三郎は、この国際語に興味を持ち始めました。そして実際に、エスペラント指導法に貢献した事は注目に値します。必須3,600語を抜き出し、エスペラント学習者の単語暗記を容易にする為、歌を作りました。それらは、大本機関誌に印刷され、書籍の形では、1924年『記憶便法 エス和作歌辞典』として出版されました。加えて、王仁三郎は自宅の家具をはじめ、すべて目に見える物にエスペラントで張り紙をしました。そうする事によって、自分の学習に役立てるだけでなく、訪問者の注意をエスペラントに引きつけることにもなりました。

 まもなく、由里忠勝に加えて、新しい指導者、小高英雄が現れます。彼の指導の下、松山で講習会が開かれた事は注目に値します。というのも、その講習会には、警察のスパイが学習者として参加していたからです。彼らは、大本とエスペラントのつながりを、より詳しく調査する目的で講習会に潜り込んだ事がわかっています。1925年、若い大本の講師達が、様々な都市で、10講座、のべ385名を指導しました。しかし、エスペラントの発展は、常に、より多くのオーモターノがエスペラントを話すといった事実だけでなく、実用的使用の為の組織としての枠組みが、形成し始めたことからも推し量られます。1923年、大本エスペラント会が設立されました。まもなく、名称がエスペラント普及会と変更されました。普及会は大本内だけでなく、全国で、エスペラントを普及する専門組織でした。普及会は急速に発展します。普及会最初の地方支部は、すでに1923年10月、大阪に設立されていました。そして翌年1924年6月時点で、日本の様々な都市で25の公表された支部のリストが残っています。
 普及会は独立して活動しましたが、その活動は日本エスペラント学会とも連動していました。実に、学生達が大本の中にエスペラントを移植しました。学生達はオーモターノではありませんでしたが、大本のよき友人達でした。そういった事実により、普及会の活動家が日本のエスペラント運動に参加する手助けになったのでした。1923年、岡山で開催された第11回日本エスペラント大会には、すでに数名のオーモターノが参加しています。公的な代表は西村光月でした。彼は、2ヶ月前に学習を始めた流暢なエスペラントで、大会参加者をうっとりさせました。若いオーモターノ達は、エスペラントがいかに平易であるかの生きたモデルとなりました。このようにして、大本において、この国際語は根付いていったのでした。

同時代、日本人の新渡戸稲造、国際連盟事務次長は、その世界組織によって、エスペラント導入を熱心に支持しました。彼は、大本の活動にも興味を持っていました。
(続く)第3章